24.1 概観 24.9 V-ところだ
24.2 動詞の時間的性質 24.10 V-たばかりだ
24.3 V-ている 24.11 V-たことがある
24.4 する・した 25.12 V-つつある
24.5 V-てある 25.13 V-ようとする
25.6 V-ておく 25.14 複合動詞
25.7 V-てしまう 25.15 時間表現のまとめ
24.8 V-ていく/くる
24.1 概観
述語と「時間」の関係の一つとして、「テンス」を考えてきました。次に、もう一つの重要な時間の表し方を見てみましょう。「アスペクト」とは耳慣れないことばかもしれませんが、最近の文法書ではよく使われます。「相」と翻訳することもありますが、「ソウ」だけでは耳で聞いてわかりにくいし、耳新しいことばの方がかえって強く印象に残っていいという利点もあるので、カタカナ言葉を使うことにします。英語の「aspect」です。
文法書によると、アスペクトとは「始まりと終りをもつある動きの過程を、その過程のどの段階に注目して表現するか、による表現の使い分け」のことだなどと書いてあります。が、これでは何だかわかりません。具体的な例を見てみましょう。
ごはんを食べます。
ごはんを食べ始めます。
ごはんを食べています。
ごはんを食べました。
ごはんを食べてしまいました。
などに見られる違いです。これらはどこが違うのでしょうか。上の定義をもう少しふつうのことばで言えば、「時間の流れの中で、ある事柄が起き、続き、終わる、そのことの表わし方」とでも言えばいいでしょうか。それぞれの用法については後でくわしく見ます。
アスペクトの違いを持つのは、上の定義からもわかるように、動きの動詞だけです。状態を表す動詞や、形容詞・名詞述語ではアスペクトは問題になりません。しかし、アスペクトも、時を表す表現全体の中で考える必要がありますから、状態を表す動詞も無関係ではありません。
アスペクト表現の中心は、動詞の基本形とタ形、それに動詞の活用形のあとに補助要素がついた複合述語です。補助要素としては、動詞の「テ形」に続くものと、中立形に続くものがあります。
「テ形」に続くものの代表は「V-ている」です。これは動詞のテ形に動詞「いる」がついた形ですが、この「いる」はふつうの存在の意味を表す「いる」とは違います。本来の「存在」という意味を失って、助動詞のような働きをしています。このような、「V-て」に続く「いる・ある・しまう」などを「補助動詞」と呼ぶことにします。
食べている 立っている 来ている
置いてある 開けてある 調べてある
食べてしまう 割れてしまう 寝てしまう
「V-ている」は非常によく使われる基本的な表現で、用法がいくつかに分かれ、その習得には十分な練習を必要とするものです。
動詞の中立形を使うアスペクト表現は、「V-始める」「V-続ける」などのいわゆる複合動詞です。
食べ始める 降り続ける
そのほかにも、形式名詞を使った「V-ところだ」、副助詞による「V-ばかりだ」などがあります。
始めるところだ 着いたばかりだ
これらの意味・用法については、それぞれの項目で見ていくことにしますが、まず、かんたんに問題点を一通り見ておきましょう。
これらのアスペクト表現の基本になるのは、動詞自体の時間的性質です。前に述べたように、時を表す補語とそれをとる動詞との間には制限があります。「2時に」のようなある瞬間を示す補語と「働く」のようなある長さを必要とするような動詞は共に使うことはできません。
×2時に働きます。
このような、動詞自体の持っている時間的性質をまず明らかにする必要があります。それには、時を表す様々な補語との制限関係を調べてみることが有効でしょう。
次の節で見るように、動詞はその時間的性質によって、「状態動詞・継続動詞・瞬間動詞」という分類が考えられます。さらにもう一つ「特殊動詞」というのがあり、ぜんぶで4種類に分けることが一般に行われています。
その時間的性質によって、動詞の後に付く表現の用法の制限があり、複合述語全体として表わす意味が決まります。先程の「V-ている」も、その動詞が「状態・継続・瞬間・特殊」のどれであるかによって、「-ている」の付き方、付いた時の意味が違ってきます。
前に(4.1.1)述べたように、「動き」の動詞の現在形は、今現在のことをふつうは表せません。そのためには「V-ている」の形を使います。
×現在、佐藤さんは難しい本を読みます。
現在、佐藤さんは難しい本を読んでいます。
(「今」という言葉は、「今、行きます」「今、来ました」のようにすぐ後のこともすぐ前のことも指せるので、上のような例文のチェックはできませんから、あまり使わない言い方ですが「現在」にしておきます)
このことは、英語でも似た事情があるために、日本語学習者にも理解しやすいところです。問題は、この「V-ている」の表し得る意味がこのような「現在進行中」という単純な意味だけではないことです。
私は毎日学校に行っています。
あの子は学校に行っています。
母は今買い物に行っています。
初めの例は「習慣」を表します。最後の例は「母」が今現在出かけていて、家にいないということでしょう。では真ん中の例はどうなりますか?「毎日」なら習慣で、「今現在」なら後の意味です。具体的な場面では、状況によって意味が確定するので誤解は起こらないでしょうが、こういうところが日本語学習者にはわかりにくいところになるでしょう。また、
3時から5時まで本を読みました。
3時から5時まで本を読んでいました。
の違いは何でしょうか。何か違うようですが、学習者にわかるようにはっきりと言い表すのは難しいことです。そしてまた、日本語教育の世界では有名な例ですが、
窓が開いています。
窓が開けてあります。
の違いを(体系的に)どう説明するかも重要な問題です。「ている・てある」という補助動詞の違いだけでなく、自動詞・他動詞の対立の問題もからんで来ます。
「テンス」の項で見たように、「た」が単純な過去を表さない場合がいろいろありますが、その中で、アスペクトの一つである「完了」を表す場合があります。
昨日来ました。(過去)
もう来ました。(完了)
ほかにも、「た」と関係のある表現がいろいろあります。
今来たところです。
もう来てしまいました。
前に来たことがあります。
これらの表現の意味は、そしてそれらはどんな場合に使えばいいのか。そのすべてを明らかにすることはとうていできませんが、これから一つずつ考えて行くことにしましょう。では、まず動詞自体の時間的性質について考えてみます。
24.2 動詞の時間的性質
24.2.1 状態動詞
動詞の時間的性質を考えると、まず特徴的なのは「状態」を表す動詞です。前に(4.1.2) 述べたように、「状態」を表す動詞は「話している今、現在」のことをそのままの形で表せるという点で、一般の「動き」の動詞とは大きく違っています。「状態動詞」と呼ぶことにします。
(現在)それは机の中にあります。
×(現在)彼は図書館で勉強します。(→勉強しています)
状態動詞の例をもう少しあげておきます。範囲を少し広くとります。
存在・必要 ある・いる・存在する・要る・要する・かかる・・・
可能 できる・来られる・読める・食べられる・・・
関係 合う・似合う・違う・異なる・含む・成る・・・
思考・感覚 わかる・見える・聞こえる・思う・感じる・痛む・・・
日本語の勉強にはいい辞書が要ります。
家から会社まで1時間かかります。
参加費は往復のバス代を含みます。
日本列島は4つの大きな島と、多くの小さな島から成る。
留学生はそれぞれ母語や文化が違います。
遠くに富士山が見えます。
初めの「存在・必要」と「可能」が典型的な状態動詞です。「関係」のところの動詞は、「V-テイル」の形でも使われます。
「思う」以下は思考・感覚を表す動詞で、必ずしも「状態」ではありません。例えば、医者が麻酔注射をした後で、患者の体にちょっと触って、
「感じますか」「いいえ、全然感じません」
というような場合は、瞬間的なものでしょう。けれども、状態を表すときにも
そのまま使えるので、状態動詞としておきます。
「まだ痛みますか」「ええ、朝からずーっと」(?痛んでいますか)
24.2.2 動きの動詞の分類
次は動きの動詞の分類ですが、「4.6 時を表す助詞」でとりあげた「時の補語」との関係を見てみます。どんな動詞が、「時ニ」「時マデ」「時マデニ」「期間デ」などとともに使われるかを調べます。
①「時ニ」
まず、「時ニ」とともに使われる動詞は多くあります。
2時に 始まる/出発する/帰る/変わる/死ぬ
日曜日に 勉強する/働く/本を読む/犬小屋を造る/雨が降る
「2時に」は瞬間を表しますから、それとともに使われる動詞は瞬間的な動き、あるいはある長さを持つ動きの始まりまたは終わりを表す動詞です。
私は朝9時に会社に行って、夕方5時に帰ります。
父は夕方5時に会社を出て、6時にうちに帰ります。
「帰る」は、上の例では1時間を要する動作ですが、「時に」とともに使われると、その初めか終わりの時点の行動を表します。
このような、瞬間的な動き(「変化」を含む)動詞を「瞬間動詞」とします。
同じ「時に」でも、「日曜日に」の場合は、継続する動きの動詞も使えます。「4.6」でも述べたように、「江戸時代に」とか、地質学で「カンブリア紀に」などと言うとかなり長い期間を指すことができます。しかし、時間の幅そのものを指すのではなく、あくまでも全体を一つのまとまりとして見なしています。動詞の示す事柄は、その中で起こるのです。「アイダ」と「アイダニ」の違いに似ています。
江戸時代の270年の間に、商業が発達した。
江戸時代の270年の間、徳川家が日本を支配した。(×間に)
どちらもその期間の全体を指すのですが、「に」があると、その中で起こったことと見なされます。ですから「徳川家」の例では合いません。
[動きの長さということについて]
さて、初級の学習者の作文に次のような誤用が出ることがあります。
私は今日6時に起きて、7時に朝ごはんを食べました。
?8時に学校へ行って、9時に勉強をしました。
「勉強をする」は継続する動作ですから、「9時に」のような時間の点を表わす表現とはいっしょに使えません。それはすぐわかるのですが、では「7時に朝ごはんを食べる」という表現はなぜ許されるのか、と聞かれると困ります。「食べる」にはある時間の長さを必要としますが、上のように「7時に」といっしょに使っても、不自然さを感じません。
このような日常の習慣的動作で、しかもその終りがはっきりとある動作は、実際には長さを必要とするものでも「~に」と共に使えるのだと考えるしかないようです。「勉強をする」のような、どこまですれば終りかが、その動詞の意味内容からははっきり決められない動詞はだめです。
②「(時カラ)時マデ」・期間
「1時から3時まで」あるいは「2時間」のように時間の幅を表す表現とともに使われるのは、継続する動きです。これを「継続動詞」とします。
それと、状態を表す動詞・述語も使えそうですが、状態動詞の多くは、可能を表す動詞や「わかる」「見える」「似合う」「違う」「含む」など、時間とは関係のないものが多いので、それらはだめです。
2時間 勉強する/働く/本を読む/ワープロを打つ/手紙を書く/雨が降る
/日が照る/家が燃える
1時から3時まで いる/ある/忙しい/暇だ/店番だ
形容詞・名詞述語も、意味的に自然かどうかによります。
?2時間 大きい/きれいだ/学生だ/私の本だ
90年から94年まで学生でした。
瞬間的な動きを表す動詞は、もちろん使えません。
×2時間 始まる/死ぬ/着く/割れる/始める/殺す
ただし、①と②の両方に使える動詞はあります。
1時から3時まで 寝る/乗る/会う/外に出す/冷房をつける
1時に 寝る/乗る/会う/外に出す/冷房をつける
「時カラ時マデ」のほうは、その動作が続いていることを表し、「時ニ」のほうはその動作の始まりの点を表します。
「瞬間動詞」と「継続動詞」を分けるには、上の①と②、つまり
①「2時に」のような瞬間を示す時の補語とともに使えるか、
②「(時カラ)時マデ」あるいは期間を表す表現とともに使えるか
を考えればいいわけですが、一般には、あとでとりあげる「V-テイル」の用法を説明する際に、その二つの主な用法とからめて説明されることが多いのです。しかし、その基本には上のような時の補語との関係があるということをおさえておく必要があると思います。
③「時マデニ」
さて、以上で「継続動詞・瞬間動詞」に大きく分けられるとしても、ほかの時の補語との関係で、また別の動詞の性質が見えてきます。
まず、「時マデニ」とともに使える動詞、使えない動詞はどんな動詞か考えてみましょう。瞬間動詞と継続動詞(の一部)はいいようです。
3時までに 出発する/来る/月が沈む/洗濯物が乾く/ケーキが焼ける/
会議を始める/夫を殺す/作文を書く/料理を作る
×3時までに 働く/歩く/部屋にいる/忙しい/暇だ/病気だ
形容詞や名詞述語、状態動詞がだめであることは当然としても、継続動詞の中でいいもの(作文を書く・料理を作る)とだめなもの(働く・歩く)があるのはどうしてでしょうか。
動詞が表す動きには、その動きがあるところで完成する・実現するものと、そうでなくだらだらと(?)続くものがあります。例えば「犬小屋を造る」は、何時間か作業を続けて、ある瞬間に「犬小屋」が完成し、「造る」という動きが終わります。「作文を書く」もそうでしょう。少しずつ書いていって、ある瞬間に「作文を書いた」と言える時が来ます。それに対して、「働く」の場合は、確かに「5時まで働いた」とは言えるのですが、そこで何かをなし終えた、ということはありません。(こう言うと何か暗い感じがしますが)また次の日にその続きが同じようにあるだけです。
「時マデニ」は、このように何か「実現・達成」を意味するような「終わり」のある動きについて使われます。(これを「限界」という用語で示すことがあります。)瞬間的な動きの場合には、「来る」でも「会議を始める」でも、それが実現することを表しますから、「時マデニ」と使えるのです。
ただし、「働く」でも次のように言うことはあります。
俺は60までに充分働いた。だから、これからはしたいことをするんだ。
この場合は、「充分働く」ということが「60までに」実現した、という意味ですから、ただの「働く」とは違ってくるのです。
④「期間デ」
同じような「実現・達成」の意味を必要とする時の補語として「期間デ」がありますが、こちらは瞬間動詞の一部が使えない点が違います。
2時間で 小説を一冊読む/掃除をする/学校に着く
×2時間で 出発する/会議を始める/会場に入る
「×2時間で出発する」がぜんぜん意味をなさないのに、「空港から2時間で学校に着く」がいいのは、「2時間」が「着く」までの時間を表しているからです。ある動きの終わりの点で実現するような意味の瞬間動詞は使えますが、何か動きの初めの部分を表すような瞬間動詞はだめなのです。
次の「会議が終わる」と「会議が始まる」の違いを見て下さい。
3時までに 会議が終わる/会議が始まる
2時間で 会議が終わる/×会議が始まる
ただし、次のようには言えます。
あと2時間で会議が始まります。
この場合は、「今から2時間」ということを表しているからです。先ほどの例も、「あと2時間で出発する」なら言えます。
「デ」のあるなしで動詞の意味合いが変わってきます。
2時間走る
2時間で走る
「2時間で」のほうは、ある「決まった距離を」という意味合いを感じます。
10分新聞を読む
10分で新聞を読む
「デ」がないと、単にその時間だけ、という意味ですが、「デ」があるほうは、読むべき部分を読む、つまりその新聞に関しては一通り読んだのと同じことになります。
以上のように、動きの動詞は、瞬間的な動き(変化)を表す「瞬間動詞」と時間的長さのある動きを表すことができる「継続動詞」の二つに大きく分けられますが、両方の用法を持つものもたくさんあります。
この分類はあとでも必要になる分類です。「状態動詞」を入れて3種類になり、これが動詞の時間的性質による基本的分類です。
1 状態動詞
2 動きの動詞 2-1 継続動詞
2-2 瞬間動詞
ただし、この分類は、多くの文法書では違った手順によって行われます。それについては、次の「V-ている」の項で述べます。
24.3 V-ている
上に述べた「状態・継続・瞬間」という動詞の分類は、一般には、「V-ている」という形の複合述語の用法に関連して述べられることの多いものです。
先にかんたんに述べてしまうと、まず、
1 「V-ている」の形には本来ならないものが「状態動詞」
で、「V-ている」の形で、
2 「進行中の動き」を表す動詞が「継続動詞」、
3 「動きの結果としての状態」を表す動詞が「瞬間動詞」、
4 常に使われる動詞が「特殊動詞」(例は後で出します)、
となります。この分類のしかたのほうが、手続きが単純でわかりやすいので、ほとんどの文法書がこのやり方をとっています。
「V-ている」は、この形をとり得る動詞の範囲が広く、用法の幅も広く、結果として使用頻度が高いので、初級日本語の中でも重要な文法項目の一つです。そして、前にも述べたように、動きの動詞は「現在形」が「現在」を表せないということがありますので、この「V-ている」の形が頻繁に使われることになります。
「V-ている」の基本的な意味は、ある動詞Vの表す事がらが実現した状況(それが「V-て」です)になり、その状況の中に「いる」ということです。その「状況」の内容と、「いる」の具体的な内容は、その動詞が本来持っている意味・時間的性質によります。(この「状況」ということばはあまり適当とは言えませんが、ほかにいい表現がないので、こうしておきます)
例えば、「食べている」の場合、「食べる」という行為が「実現した状況」というのは、「食べ始まった」ことを意味します。「食べ始まり、その状況の中にある」ということです。「実現した」というのは、ここではそれが「完成した、終了した」ということではありません。ただし、「死んでいる」ならば、始まりと終了が同じ瞬間のことですので、「実現」=「終了」になります。
さて、「V-ている」全体の時間的性質は状態動詞と同じようになり、現在を表すことができます。
したがって、状態動詞は基本的には「V-ている」の形になりません。
×ここにいている。
×お金が要ている。
「存在する」や関係・感覚を表す動詞のいくつかは「V-ている」の形にもなります。意味の違いはほとんどありません。
存在する:存在している 違う:違っている
含む:含んでいる 感じる:感じている
動きの動詞の「V-ている」の用法は、その表す意味によって、まず大きく二つに分けられます。Vが継続動詞の場合は「動きの進行」を表し、瞬間動詞の場合は「動きの結果としての状態」を表します。この違いをはっきり理解することが、この文型の基本です。(念のために繰り返しておきますが、「動き」というのは便宜的な表現です。「状態」ではない、ということで、「眠る」とか「死ぬ」なども「動き」に入ります。)
24.3.1 進行中の動き(継続動詞に)
1 彼はいま図書館で本を読んでいます。
2 前の道をおおぜいの人が歩いています。
3 夕べの地震のときは、自分のへやでテレビを見ていました。
4 2時頃には、ちょうど富士山のそばを走っているでしょう。
例1・2はなにも問題がないでしょう。ある動作が現在進行中であることを表わします。例3はそれが過去のテンスになっています。過去のある時に進行 24.3.2 動きの結果の状態
中の動作を表わします。例4は未来のことです。それらの場合は、その「ある時」が、文脈かあるいはその文の中で、はっきり示されてなければいけません。テンスが現在のときは、それが「今」という、その言葉が発せられている時間になります。
これは言うまでもないことのようですが、「読んでいる」状態のあとで「読んだ」ことになります。次の「結果の状態」との対照のために、次のような一見わかりきった流れを確認しておいて下さい。
(読み始める) → 読んでいる → 読んだ
(歩き始める) → 歩いている → 歩いた
覚えておいてほしいのは、「テイル → タ」という順序です。
24.3.2 動きの結果の状態(瞬間動詞に)
上のような「進行」の用法は学習者にとって比較的わかりやすいものですが、次の用法はちょっとわかりにくいようです。
今、お客さんが来ています。
この虫は死んでいます。
その時、田中さんは赤いかばんを持っていました。
二十年後には、この木は大きな木に育っているでしょう。
「来ている」は、「来た」結果、現在「いる」ことを表します。「来る」に当たる英語の動詞"come"の「進行形」"coming"のように、「来る」という動作が「進行中」、つまり来る途中であることを表すのではありません。同じように「死んでいる」も、もう死んでしまって、その状態であることを表し、「死につつある」のではありません。言い換えると、
来た→ 来ている 死んだ→ 死んでいる
という順序になっています。「持っていた」の例では、その全体が過去のことになっています。この話し手が「田中さんがかばんを持っている」のを見たのが過去のある時で、「田中さんがカバンを持った」のはそれよりも前の時点です。
(「その時」より前に)持った→ (その時)持っていた
今の「た→ている」の順序は、上で見た継続動詞とちょうど反対になります。
この「た/ている」の順序の違いを並べてみせると、学習者にもこの二つの用法の違いが理解しやすいようです。
ただし、「着る・はく・ネクタイをする」など身につけるものに関する動詞は、ちょっと特別です。
今、ワイシャツを着ています。
という文は、「そでに手を通している」というような、現在その動作の途中であるような意味と、その動作が終ってしまった後の状態との両方を表すことができます。
今ネクタイを締めているんですが、久しぶりなのでうまく締められません。
あの人はいつも紺のネクタイを締めています。
先ほどの順序で言えば、
着ている → 着た → 着ている
締めている → 締めた → 締めている
のようになります。
ただ、この前の方の「~ている」は、「V-ようとしている」という言い方でも表せます。その動作がまだ目標達成までに至っていない、ということをはっきり示した言い方です。
今ネクタイを締めようとしているんですが、~。
そう考えると、後の方の「V-ている」、つまり「結果の状態」の方がこれらの動詞にとって基本的な用法だとも言えます。
瞬間動詞ではないのに「V-ている」が結果の状態を表す動詞もあります。例えば、「太る・やせる」という動詞は、
やせた→ やせている
となって、結果の状態を表しますが、瞬間動詞ではありません。長い期間(と努力?)が必要です。(これについては、あとで「変化動詞」という考え方の紹介のところでまた触れます。)
以上の二つの用法が「V-ている」の基本的用法です。継続動詞と瞬間動詞の違いと、それに対応した「V-ている」の意味の違いがポイントです。
24.3.3 その他の用法
「V-ている」には派生的な用法として「習慣・反復」「経験・記録」「単なる状態」などがあるとされます。
[習慣・反復]
私は毎日電車で学校に通っています。
食事の後でちゃんと歯をみがいていますか。
毎日どこかで交通事故が起きている。
主体が単数で、動きを繰り返す場合と、複数の主体の動きが次々と続く場合があります。
[経験・記録]
以前に何度も挑戦を試みている。
私はその映画を前に見ています。
この地方では五年前にかなり古い土器が発見されている。
この用法については、後でまた何度か触れます。報告調の文体という感じがします。
[単なる状態]
道がくねくねと曲がっている。
この湖の水はとても澄んでいる。
この用法は、すぐ後でとりあげる「特殊動詞」につながるものです。
「習慣・反復」は「継続」の、「経験・記録・単なる状態」は「結果」の、それぞれ派生的用法と考えられます。また、習慣とは人が毎日繰り返す行動のことですから、広く言えば「反復」の中に入れていいでしょう。
また、「ている」の有無で意味の変わらない動詞もあります。
このカーテンの色は部屋によく合います/合っています。
海水は酸素を含む/含んでいる
AとBは異なる:異なっている
これらは二者の関係を表す動詞です。「関係」は、時間とかかわらない、一種の状態です。
24.3.4 特殊動詞
「V-ている」の形で「単なる状態」を表すのが基本的な使い方であるような動詞、言い換えれば、基本形(+ます)の形では普通使われない動詞があります。これらを(アスペクトに関して)「特殊動詞」と呼びます。形容詞に近い動詞とも言えます。
山がそびえている。(×そびえる)
性能が優れている。(×優れる)
彼は丸い顔をしている。(×丸い顔をする)
「する」はふつうは継続動詞ですが、この「~顔をしている・大きい手をしている」などのように身体の特徴を表わす表現では「している」の形がふつうです。似たような使い方ですが、
大きな顔をするな!
というのは、そのときの一時的な状態(態度?)ですから、ちょっと別です。
特殊動詞の基本形は、連体修飾の形では使われます。(→「56. 連体節」)これを、基本形と「ている」の形との対立が連体修飾の位置では「中和」されている、といいます。
後ろにそびえる/そびえている 山々
その場合、「ある性質をもっている」という意味の場合はタ形になります。
優れた性能 とがった鉛筆 澄んだ水
「優れる才能/優れている才能」と言う人もいるかもしれませんが、あまり使われません。なぜ過去形になるのか、学習者には分かりにくい用法です。 「読んだ本」のようなふつうの動詞の場合は、「読んだ」ということがその前に起こったことが想定されている(この形は「過去」のことだけでなく、将来のことにも使えます。「読んだ人は先に帰ってもいいです」のように。くわしくは「56.連体節」で。)のですが、「澄んだ水」の場合は、いつ「澄んだ」のかという問い自体が成り立ちません。
24.3.5 自他と「ている」
前に「自他の対」のところで、対にある他動詞と自動詞を多く紹介しましたが、その他動詞はほとんどが継続動詞で、自動詞は瞬間動詞です。したがって、それらの「他動詞+ている」は進行中の動きを表わし、「自動詞+ている」は結果の状態を表わすことになります。
家を壊している:家が壊れている
本を並べている:本が並んでいる
他の多くの自他の対でもこうなりますが、もちろん例外というものは常にあります。
電車を動かしている(動かす):電車が動いている(動く)
ボートを揺らしている(揺らす):ボートが揺れている(揺れる)
などではどちらも進行中の動きです。動詞と時の表現の関係を見ても、
一分間揺らした:揺れた
で、どちらも継続動詞です。
この自他の対とアスペクトの関係は、後でとりあげる「V-てある」に重要な関係があります。
24.3.6 もう一つの分類法:変化動詞
さて、「時の補語」との関係で動きの動詞を分類し、「V-ている」の用法との関係を見てきましたが、最近はこの「瞬間動詞」という用語はだんだん使われなくなってきています。
その理由は、「瞬間」という定義に合わない動詞が「結果の状態」になることと、それらの動詞に共通する特徴を「変化」という用語でとらえたほうがいいだろうということです。
例えば、前にあげた「ふとる・やせる」は「瞬間」ではないのに、「太っている」は進行中の動きではなく、結果の状態です。また、
この湖の水には大量の塩が溶けている。
台風の影響で潮位が高まっている。
などでも、そうなるにはある程度の時間がかかっているのですが、この文は結果の状態と解釈されます。
また、「デパートへ買物に行く」の「行く」が、家からデパートまでの動きを指すのか、家を出ることを指すのか、デパートに着くことを指すのかは文脈によるでしょう。
8時にデパートへ買い物に行った。
9時にデパートに行き、10時に映画館に行った。
デパートに行くのに1時間かかる。
しかし、「行っている」は結果の状態にしかなりません。これも、動きが瞬間的なことかどうかで決まるとは言えません。
そこで、「太る・高まる・行く」などに共通する特徴をあらためて考えると、これらの動詞は、形や位置の変化を表していて、その動きの前と後では、主体に何らかの状態の変化があると言えます。
これまで「瞬間動詞」の例として出した動詞も、みな変化を表すと言えます。
始まる・変わる・死ぬ・出発する・帰る・着く・割れる
そこで、「瞬間動詞」改め「変化動詞」としてこれらの動詞を定義しようというわけです。
「継続動詞」のほうも、時間の長さを意味する「継続」ではなしに、「変化」と対立させて、例えば「動作動詞」(人間の動作だけでなく自然現象も含めて)と呼ぶことになります。
しかし、そうしてみてもまた例外はついて回ります。瞬間的な動作を表す動詞の中で、「V-ている」が「結果の状態」を表すものがあるからです。
彼女はその瞬間を目撃している。
「目撃する」は変化とは言えませんが、この「目撃している」は動作の進行を表すのではなく、結果の状態(に近い意味)です。
また、自他の対となる動詞で、
紙を燃やしている(燃やす):紙が燃えている(燃える)
のどちらも動きが進行中ですが、「燃やしている」が動作なのに対して、「燃えている」は変化が進行中であることを表します。「変化の結果の状態」ではありません。(「火が燃える」なら「動作」と言えるかもしれませんが、「紙が燃える」はどう考えても「変化」です。)
というわけで、どちらの説によっても例外があり、決定的な説とは言えません。ちょっとめんどうですが、「継続動詞・瞬間動詞」という用語と、「変化動詞・動作動詞」という用語の両方を知っておいたほうがいいでしょう。その違いは部分的なものですから、そんなにこだわる必要もないかもしれませんが。
[対象変化動詞]
「行く」や「太る」は、主体が変化する動詞です。それに対して、対象が変化する動詞を考えてみましょう。例えば、
彼は部屋の壁に自分の絵を掛けている。
という文は、「かける」という動作をしているところとも解釈できますが、いつもそういう状態にある、という意味、つまり「かけた」結果の状態を表している文だとも言えます。それは「絵が壁にかかっている」という主体変化と対応する表現です。
同じような「対象変化動詞」でも「結果の状態」にとられやすいものがあります。
学生たちはみな教科書の8ページを開いている。
「8ページを開く」はほとんど瞬間的な動作で、「いま、開きつつある」わけではありません。「開いた」結果、「8ページが開かれた状態」になっていることをこの文は表しています。これは、「本を開く」という動作が、その結果の状態に注目するような性質を持った動作だ、という風に説明するしかないでしょう。
彼はいつも研究室のドアを少し開けている。
という例も同じです。もちろん「開けてある」と言ってもいいのですが。「V-てある」はすぐ後でとりあげます。
あの喫茶店はテーブルをいくつか前の歩道に出している。
この会社は省エネのため、廊下の電気を半分消している。
妻は、買い物に出るとき、空き巣よけにテレビをつけている。
24.3.7 「V-ている」が言えない動作
「継続動詞・瞬間動詞」という分類法にせよ、「動作動詞・変化動詞」という分類法にせよ、それらの動詞が「V-ている」の形で「動作の進行」か「結果の継続」か(あるいはその両方とも)を表せるという前提があることでは同じですが、実際の例を考えてみると、意外に「V-ている」にならない、あるいはなりにくい(その形では意味がとりにくい)ものが多くあります。例えば、
?(今)妻が夫を殺しています。
という文を考えてみます。妻が夫の不倫に憤って包丁を・・・というようなテレビドラマ風の文脈はすぐに頭に浮かびますが、「死ぬ」は瞬間的な変化で、それを引き起こす動作が「殺す」ですから、「殺す」は継続動詞ではありえません。動作として考えると、「殺す前」か「殺した後」のどちらかで、「殺している瞬間」というのは考えられません。
また、主体の側から見れば「動作」ですが、対象の変化を引き起こすという点で、「対象変化動詞」ということもできます。しかし、「結果の状態」と解釈することもできません。
夫が床に倒れています。
なら、「倒れる」という「瞬間(変化)動詞」の結果としてごく自然な解釈ができます。これは、「倒れる」が自動詞で、「主体変化動詞」ですから、主体の変化の結果となるのは当然のことです。「殺す」の場合は、やはり主体のほうが意味解釈の中心的な役割となって、対象の変化よりも主体の動作としての面が中心になるからでしょう。
同じ「殺す」でも、
奥さんは庭で花についた油虫を殺しています。
ということはできます。これは、「油虫」が複数と考えられるからで、一つ一つの動作「殺す」は瞬間的なものでも、それが繰り返されることを「V-ている」の形が表すのです。
元の「V-ている」が言いにくい動作の話に戻りましょう。
野菜を切っていて、うっかり手を切ってしまった。
というような場合、例えばテレビの料理番組を録画して見直しているとしても、
?今、うっかり手を切っている(ところだ)。
とは言えません。瞬間的な動作ですから。
野菜を切っている。
が言えるのは、一回の動作は瞬間的でも、何回も繰り返している全体を「切っている」と表現するからです。「割る」なども同じで、一枚しかなければ、
?大切な皿を割っている。
とは言えません。逆に、
皿を割っている。
という文があれば、その皿は複数でなければなりませんし、日本人はそれがすぐわかります。(「(一枚の皿を)細かく割っている」なら動作が複数です。)
日本語では名詞が単数か複数かは示されませんから、「皿を割っている」の「皿」が、「V-ている」の意味から考えて複数と見なされる、などというのは日本語学習者にはかなり難しい話です。
文法書で、
窓を開けている。
は「動作の継続」で、
窓が開いている。
は「結果の状態」だ、というようなことが書いてあることがありますが、これもよく考えると、ちょっと怪しいところがあります。一枚の窓なら、「今、窓を開けている」とは(進行の意味では)ふつう言わないでしょう。
「口を開けている・口が開いている」ならもっとはっきりします。「口を開けている」は「動作の継続」ではありません。
24.3.8 反復動作について
上で触れたように、「V-ている」という形式には、「読んでいる・働いている」のように、まさに「動作の継続」と言える場合以外に、何回も同じ動作が繰り返されることを「継続」として見なす場合があります。
花についた虫を殺している。
爪を切っている。
ドアを叩いている。
「太鼓を叩く」というと、「1時間~」とも言えるので、何回も叩くこと全体が「叩く」で表されていることになりますが、
ドアをドンと激しく叩いた。
ドアをドンドン激しく叩いていた。
の場合は対立があります。太鼓は「叩き続ける」ことがごく当然のことだという常識から来る違いがあるのでしょう。(?ドアを1時間たたく)
この反復の「V-ている」をさらに広げて考えるのが、いわゆる「習慣」の用法でしょう。
(今)学校に行っている。
は「行った」結果、「学校にいる」という意味になりますが、
毎日学校に行っている。
となると、繰り返しの意味になり、「通っている」ということになります。
あなたはちゃんと新聞を読んでいますか。
も、ある時間継続して読み続けるという「読んでいる」ではなくて、「読む」ということが毎日繰り返し起こる、という意味になります。
きちんと歯をみがいていますか?
24.4 する・した
以上、「V-ている」について述べてきましたが、ここであらためて、動詞の基本形・タ形(-マス・マシタの形も含めます)がアスペクトとしては何を表すかということの復習をしておきましょう。
[状態動詞]
まず、状態動詞の現在形は、前にも書いたようにそのままの形で現在のことを表わせます。
今、地球に50億の人がいる。
彼女は数学がとてもよくできます。
過去形は、過去のあるときの状態を表します。
二十世紀の中頃、地球には25億の人がいた。
彼女は学生時代、数学がとてもよくできました。
状態動詞の場合は、初めと終わりは意識されません。「50億人いる」の例の場合も、ある時50億になり、またある時そうでなくなるわけですから、その状態の初めと終わりがないわけではありませんが、それは意識されません。そうすると、これはアスペクトとは言えません。つまり、状態動詞にはアスペクトという考え方は適用されません。ただし、動詞の時間的性質という点では、後に述べる「~ている」と似たものになります。
それから、次のようなものも「現在の状態」を表しますが、これは状態動詞ではなく、動きの動詞の「状態動詞的用法」でしょう。これらは「動き」ではなく、可能性または性質を表す表現です。
このびんは1リットル入ります。
この箱は水に浮きます。
現実に目の前で、ということなら、
この箱は水に浮いています。
のように「~ている」の形を使います。
[継続動詞]
次に、動きの動詞の継続動詞の場合。たとえば、
ポチがごはんを食べます。
のような文は「4.動詞文」の初めに述べたように、これだけでは(特に文脈がなければ)意味が宙に浮いているような感じがしますが、それは動詞のテンスが前に述べたようにはっきりしないことによります。この文の表していることが今のことなのか、未来のことなのかはっきりしないと、具体的な事がらとしてイメージできません。「食事」という現象、頭の中にある概念を表しているだけです。過去形にして、
ポチがごはんを食べました。
とすると事実の描写として安定するということも前に述べました。
現在形のままでも、日常繰り返される、例えば、「ごはんを食べる」に時を表す表現を加えて、
あとでごはんを食べます。
さっきごはんを食べました。
いつも朝8時にごはんを食べます。
とでもすると、日常使われる文として、落ち着きます。
さて、ではこの三つの文に共通する「食べます(ました)」というのは、「食べています」などその他のアスペクトの表現との対立という面から見ると、いったい何を意味しているのでしょうか。
一つ言えることは、「食べる」という行為の初めから終わりまでを一つのものとしてとらえている、ということでしょう。これは、何かあたり前のような気もしますが、「V-ている」やその他のアスペクト表現と比べると、その違いがはっきりしてきます。例えば、
今、ごはんを食べています。
の場合は、初めも終わりもはっきりしません。もちろん、ある時に食べ始め、ある時に終わる(中断しなければ)ということは現実には当然のことですが、上の文はそのことに触れていません。今現在、「食べる」という動作があることを言っているだけです。そのほか、「食べ始める」や「食べ終わる」が「食べる」ことの全体を表していないことは、言うまでもありません。
これは、状態動詞も同じです。
今、食堂にいます。
という場合も、いつから「いる」ということがはじまり、いつ終わるのかはわかりません。
逆に言えば、
食堂でごはんを食べます。
という文は、「食べる」ことの始めから終わりまでを表していますから、ある瞬間、例えば「今」という瞬間に起こっていることを表せないのです。その瞬間の中に「食べる」という動作を位置づけることができないのです。
×今(現在)ごはんを食べます。
(ただし、「8時に食べる」の場合は、実際には「8時から」の意味であったり、前後のある程度の時間の幅を意味していたりするので、使えます。)
それに対して、
あとでごはんを食べます。
では、その行為の一続きの中のどの部分にも特に注目していません。後でそういう事がらが起こるということ、それが始まり、ある時間続き、終わるということを言っていますが、それを一つの動作としてまとめてとらえています。
さっき食べました。
でも、動作の全体を表しています。過去形にすると、始まりはぼんやりしていますが、その終り、終わったことがはっきり示されています。これはテンスのせいです。過去のこととしてとらえるとらえるということは、その終わりがあったことをはっきり示します。
継続動詞は長い期間に渡ることも表せます。例えば、
彼女はこの問題を30年間研究した。
というと、「研究する」という行為が始まり、そして終るまでずいぶんあるわけですが、それでも全体として一つのことがらとして表現されています。
彼女はこの問題を30年間研究している。
という文と比べると、アスペクトという観点からは、はっきり違ったものになります。
「研究している」のほうは、現在という「点」を含んだ「幅」、あるいは点の背景としての「幅」を表しています。それに対して「研究した」は、「30年間」全体を、いわば「まとまり」としてとらえ、表現しています。
[瞬間動詞]
瞬間動詞では、初めと終わりがくっついています。いちばん極端なのは「死ぬ」の場合です。始まりも終わりもなく、ある瞬間のできごとです。いつ「死んだ」のかは、今の医学では難しい問題になっていますが、言語表現の世界では、人は、死ぬ前か、死んだ後かのどちらかです。
よく冗談めかして、「結婚する」というのはどの瞬間を言うのだろう、と言うことがあります。考えてみてもよくわからないことですが、言葉の上では、人は結婚する前か、した後か、どちらかです。「ちょうど、今、結婚している瞬間」というのはありません。
「いすに座る」場合、物理的には時間がかかっていますが、始まったとたんに終わるものとして表現されます。「いすに座った」というと、ふつうは腰を下ろしたことだけを意味します。その後は「座っている」になります。「5秒間だけ座る」という使い方もありますが。
[変化動詞]
アスペクトに関する動詞の四分類と言うと、上の「状態・継続・瞬間」と前に述べた「特殊動詞」の四つでいいわけですが、すでに述べたように、「瞬間動詞」ではないけれど、「V-ている」が「結果の状態」になるものがあるので、「変化動詞」としてそのいくつかの「スル・シタ」の意味について考えてみます。
例えば、前に例に出した「太る」は、瞬間動詞ではありえませんが、「太っている」は結果の状態を表します。「やせる・(背が)伸びる」なども同じです。
時間がかかる変化の中にもまた違った種類の動詞があることを見てみましょう。例えば、「日に焼ける」にはかなりの時間がかかりますが、「よく焼けているね」というのは「結果の状態」を表します。
この場合は、たとえほんの少しでも「焼けた」ことになり、長い期間のどこでやめても「焼ける」ということが成り立ったことになりますが、「肉が焼ける」となるとまた違います。途中では「まだ焼けていない」となり、ある瞬間に、「焼けた」と判断されます。この場合は、「焼ける」のに一定の時間がかかり、最後の瞬間に「焼ける」という変化が完成し、食べられる状態「焼けている」になるわけです。「料理ができている」なども同様です。
[完了のタ]
テンスの過去形のところで、「完了」という用法のことに触れました。出発点は次の例です。
1「レポートはもう出しましたか」「はい、(もう)出しました」
2「レポートはもう出しましたか」「いいえ、まだ出していません」
3「きのうレポートを出しましたか」「いいえ、出しませんでした」
例3では質問の「~た」と答えの「~た」が対応しています。どちらも「きのう」、つまり過去のことを表現しています。「もう」を使った例1も一見そう見えるのですが、例2のように答えが否定になると、「~た」は出てきません。「現在」を表すはずの「V-ています」の否定の形になっています。
もちろん、現在を表す「V-ている」の否定は「V-ていない」です。
今、本を読んでいます。
今、本を読んでいません。
しかし、上の例2では「現在」の否定の形が「出しましたか」の答えとして対応しています。これはどう考えたらいいのでしょうか。
過去・現在・未来を表すテンスは、ある事柄・動きが今現在、話したり書いたりしている瞬間とどういう時間関係にあるかを表しています。過ぎ去ったことなのか、現在のことか、未だ起こらない、これからのことなのか、です。上の例3は、その一つの例です。
けれども、例1・2は少し違います。「もう出しました」と言う時、「出した」のは過去のことですが、それが単なる過ぎ去ったこと、現在と関係ないことではなく、その行為の影響が現在にまで及んでいることを表しています。
「もう出した」から、安心だ、とか、遊びに行けるとか、そのような意味合いを込めた表現です。それが実現されていない時、つまりは現在のことにかかわるので、
まだ出していません。
となるわけです。
このような「た」は、日常の生活の中で非常に多く使われます。
「通知は来ましたか」「(まだ)来ていません」
「やった?」「まだやってないよー」
これらの「た」を「過去」としてしまうと、否定の答えに出てくる現在形との関係が説明しにくくなってしまいます。
ただし、「V-ている」のようにはっきり現在の状態を表すのとは違います。
バスは来ましたか。
はい、もう来ました。
はい、もう来ています。
「来た」の場合は、「来た」だけであって、そういうことが起こったということだけです。「来ている」の場合は、「来る」ということが実現し、そのあと、その状況の中にある、つまり、たぶんその状況が変化していないということを意味します。かんたんに言えば、「来ている」では、たぶん「バス」がそこに「いる」のに対し、「来た」ではまた行ってしまったかもしれない、という含みがあります。むろん、文脈によって違うので必ずそうだとは言えませんが。
また、「もう・すでに」などが共に使われることからもわかるように、その事柄の実現の可能性が予想されていた場合に使われます。単にあることが起こり、その何らかの影響が現在にあるというだけではありません。
a「ご飯は?」「うん、できたよ。食べなさい」
b「そろそろ帰ろうかな」「晩御飯、作ったよ。食べて行きなさい」
ご飯が現在食べられる状態にあるという点ではa、bどちらも同じですが、aのほうは「まだできていない」という否定に対応します。bは、単なる過去です。この辺の違いは微妙ですが、「現在までに起こるべきことが起こったか」が重要なのです。来るはずのバスが来たかどうか、書くべきレポートを書いたかどうか、等々。
昨日よく勉強した。だから試験は大丈夫だろう。
(昨日あまり勉強しなかった。だから・・・)
試験範囲はもう全部復習した。だから試験は大丈夫だろう。
(試験範囲をまだ全部は復習していない。だから・・・)
「勉強すべき」であることは共通していますが、「昨日」のことではなく、「現在までに」したかどうかが問題になります。それが、否定で現在形が使われること、現在とのつながりということの意味です。
なお、「わかる」「できる」などでは、「V-ない」で答えられます。
「もうわかった/できた?」「まだわからない/できないよ」
[完了のタとテイル]
上で述べたように、完了の「た」を使った質問に否定で答えようとすると、「ていない」が出てきます。
「この新聞、読みましたか」「いえ、まだ読んでいません」
この「た」が単なる過去でないことはいいとして、では、「ている」の方はどうでしょうか。
バスは(もう)来ました/来ています
の「V-ている」は、前の説明では「結果の状態」ということでしたが、完了の「た」と交代可能であるなら、「完了」と言ってもよさそうです。この二つの表現はどう違うのでしょうか。
「ている」が動きの結果の状態を表すと言っても、場合によってどこに重点を置くかという違いがあります。
例えば、ただたんに庭に出て、
1 おや、花が枯れている。
という時と、花が咲いたのを知っていて、まだ大丈夫かな、と庭に出て、
2 おや、(もう)枯れている。
という時では、気持ちの違いがあります。1では単なる現在の状態の表現ですが、2では「枯れる」という動きがすでに(話し手の予想よりも意外に早く)起こったこと、その結果として現在の状態があることを表しています。2がここでいう「完了」になります。
この違いは、時の補語が示す時間が何を表すかということでも明らかになります。
3「誰がいるかなあ。おや、彼が来ているよ」
4「彼は来ましたか」「ええ、2時間前から待っていますよ」
5「彼は来ましたか」「ええ、2時間前に中に入っています」
3の例は1と同じで、今現在の状態を表します。4の「2時間前」は「待っている」という動作の始まりの時間を表します。その後、ずっとその動作が継続しているわけです。
(2時間前から)待っている →(2時間)待った
それに対して、5の例の「2時間前」は「中に入った」時間を示します。
(2時間前に)中に入った →(2時間)入っている
となります。また、
6 いつも3時に来ています。
7 いつも2時か2時半に来ることが多いですから、3時には必ず
来ています。
6では「来る」のが「3時」ですが、7では「来ている」のが3時です。
「V-ている」の完了の用法は、変化動詞に典型的なもので、継続動詞では自然な解釈にはなりにくくなります。
レポート、もう書いた?
うん、もう書いたよ。
?うん、もう書いているよ。
これは、継続動詞では「動作の継続」の解釈が優先されるためでしょう。
もう食べたよ。
もう食べているよ。
この「ている」の場合は、「食べ始めている」の意味にとるのがふつうでしょう。
もう一つ、「V-ている」の完了に近い用法があります。前に「その他」として紹介した「経験・記録」という用法です。
三年前に一人の日本人がこの地を訪れている。
この山は昔大爆発を起こしている。
この用法の特徴は、「昔・三年前に」などの過去を表すときの補語が現れることです。これらの補語と「ている」をいっしょに使うことで、過去のある時点でその事柄が起こったことと、それが現在まで、いわば「尾を引いて」いることが同時に表せるのです。
これらの補語を「V-た」とともに使ってしまうと、単なる過去の事柄の表現になってしまいます。
三年前に一人の日本人がこの地を訪れた。
完了との違いは、一般の動作動詞でもこの用法なら使えることです。 「もう読んだ?」「うん、読んだ/×読んでいる よ」
「読んでいる」は、現在進行中の意味になります。「読み始める」ということは「もう実現した」ということで、「もう読んだ」とは違った意味になります。
記録によると、彼はこの本を三年前に読んでいます。
この道は前のオリンピックの時に一度走っている。
「経験がある」というのに近く、「完了」の「起こりそうな/起こるべき」ことが起こった、というのとは違います。このため、現在を基準とした「完了」の用法は、「た」がよく使われることになります。
また、「V-ている」は、過去・未来にあることが起こった時間を基準とし、それよりも前に起こったことの影響が、その時間に残っていることも表せます。いわば「過去の完了」「未来の完了」です。これについては、もう一つの述語が関係するので、複文及び連文の問題として扱うことにします。
私の車はやっと駅に着いた。彼らは1時間前に着いていた。
未来の例。
彼らのほうが近いですから、私達が着く1時間前には現地に着いているでしょう。
それぞれ、「V-ている(た)」はその時点の状態を表すだけでなく、その前のある時と結びついています。なお、この用法は「た」にはありません。
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