24. アスペクト(2)

    24.1 概観        24.9 V-ところだ

    24.2 動詞の時間的性質  24.10 V-たばかりだ

    24.3 V-ている      24.11 V-たことがある

    24.4 する・した      25.12 V-つつある

    24.5 V-てある      25.13 V-ようとする

    25.6 V-ておく      25.14 複合動詞

    25.7 V-てしまう     25.15 時間表現のまとめ

    24.8 V-ていく/くる


24.5 V-てある

「てある」は「ている」に比べてずっと使用範囲・頻度は少ないのですが、体系性を考えると「ている」との対立という点で重要な意味を持っています。まず、例文を見て下さい。

   A 机の上に箱が置いてあります。

     あちこちに花が飾ってありました。

     黒板に字が書いてあります。

     ガラスはきれいに磨いてありました。

     削ってある  造ってある  彫ってある  描いてある 

   B 壁に絵がかけてあります。

     前の方にいすが並べてありました。

     教室の窓は開けてありました。

     黒板の字は消してあります。

 「てある」は基本的に意志的行為の他動詞に接続します。「てある」は、人があるものに対して何かをしたあと、その人またはそのものがその状態に「ある」ことを意味します。ある時に「箱を置き」、その後は箱がその状態で「ある」のです。「飾ってある」「かけてある」など、みな同様です。ある動きの結果の状態を表すという点で、「V-ている」の用法の一つと同じです。

     その問題は詳しく調べてあります。

     機械の性能は何度か試してあります。

などの場合は「ある」の意味がより抽象的になっています。そのような行為がすでに行われた、という意味です。

 「V-てある」の動詞はふつう他動詞で、本来「Nを」をとる動詞です。そのNが「Nが/は」として現れています。

     箱を置く → 箱が置いてある

     性能を試す → 性能が試してある

 上のAとBのグループ分けは、Bの方には対応する自動詞があることによります。「かける:かかる」「並べる:並ぶ」などです。そして、その自動詞に「ている」をつけた形でも、ほぼ同じような意味を表すことになります。

     壁に絵がかかっています。

     前の方にいすが並んでいました。

     教室の窓は開いていました。

     黒板の字は消えています。

 「自動詞+ている」は、その状態を見て、誰がそうしたかということを考えず、その物自体の状態として表現しているのに対して、「他動詞+てある」の方は、ものの状態を言っているのではあるけれど、それは誰かがそうしたことの結果であるという含みを持たせています。

 Aグループの例では、対応する自動詞がないので、このような似た表現はできません。

 別の言い方をすれば、Bグループの動詞では、「てある」を使わなくても、「自動詞+ている」でほぼ同じ意味を表すことができますが、Aグループではそうできません。つまり、「てある」を習うことの意義は、Aグループの表現にあります。教師も学習者も、「自動詞+ている」と「他動詞+てある」の微妙な違いを面白がることが多いのですが、それだけでは「てある」を習う必然性は薄くなります。

 「V-てある」が具体的な動作の結果を表す場合は、受身(→「25.2 受身」)の形で表すこともできます。

     机の上に箱が置かれています。

     あちこちに花が飾られていました。

     黒板に字が書かれています。

     ガラスはきれいに磨かれていました。

 こうすると、誰かがそうした結果であることが暗示されます。Bグループの場合も受身で表せます。

     壁に絵が掛けられています。

     前のほうにいすが並べられていました。

 同じ一つの状態が三つの言い方で表しうることになります。

     いすが並んでいます

     いすが並べてあります

     いすが並べられています

 先ほどAグループの例としてあげた「行為が行われた結果」を表す例は、受身では言いにくくなります。

     その問題はくわしく調べられています。

     機械の性能は何度か試されています。


[NをV-てある]

 次は「対象+ヲ」の形のものです。

   C 彼にはそのことを伝えて/言って/連絡して あります。

     前の晩にテキストを何回も読んであったので、大丈夫だった。

     いつでも冷蔵庫にビールを冷やしてあります。

     その点を明らかにするために、証人を呼んであります。

 対象の「Nを」があると、「準備」の意味合いが強く出ます。「~のために、前もって」何かをします。後でとりあげる「V-ておく」に近くなります。

 上のA、Bの例は、何かをした後の結果の状態を主に表すものでしたが、このCは動作者の意図がはっきりと表に出ています。   

 以前は、この形はあまり認められず、「NがV-てある」の形が正しいものとされることがありましたが、実際の例を見ると、「Nを」も多くあります。

これまでの例でも、「Nを」の形で言うことができます。

     各部屋ごとに大きな箱を置いてありますから使ってください。

     危なくないように、角を削ってあります。

     表面を保護するために、カバーを掛けてあります。

     換気のため、窓を全部開けてあります。

何らかの目的のため、あるいは準備として、という意味合いが強く出ます。


[~とV-てある]

 次のような例では「~とV-てある」という形になりますが、「Nが」を補うことができます。

     塀に大きくバカと書いてあった。 (落書きが)


[自動詞+テアル]

 自動詞の例もあります。     

   D 夕べよく寝てあるから、徹夜しても平気だ。

     このコースは何度も走ってあるから、細かいところまで知っている。

 「準備」の意味合いが強く出ています。なお、「Nを走る」は場所の「Nを」と考えるので自動詞です。

 「V-テアル」の動詞は多くの場合意志的な動作ですが、非意志的な例もごくまれにあります。  

     電話の横に、財布が置き忘れてあった。

しかし、やはり多少不自然な感じがします。ほかにいい言い換えがないのは確かですが。


[否定の形]

 「してありますか」という疑問に対する否定は、「して(は)ありません」で、特に問題はありませんが、普通体の「してない」が、「している」の否定形「していない」の省略した形「してない」と同形になってしまうのがちょっと困ります。

     「このフィルムはありますか」「申し訳ございません。当店では置いてありませ

      ん」「そうですか。置いてないんですか」

     「この映画、見た?」「ううん、まだ見て(い)ない」

 「やってない」は「やっていない」の省略形なのか、「やってある」の正しい否定形なのか、決められません。どちらでも意味は同じようなものですが、丁寧さの違いがあり、聞き手にとってそれが気になる場合があります。少し丁寧さを表したい場合は、「やっていない」と言ったほうがいいでしょう。もっと丁寧にしたければ、「やっておりません」などの敬語表現があります。

 「V-ないである」という形もあります。意味が少し違います。

     そのことは彼には言ってありません。

     そのことは彼には言わないであります。

 それほど使わない言い方でしょうが、「わざと言わない」という状態が続いているということです。「言ってない」のほうは、伝え忘れたのか、何となく避けたのか、はっきりしません。次で扱う「V-ておく」と重ねて使って、

     そのことは彼には言わないでおいてあります。

とも言えるところです。


[テイルとテアル]

 先ほどは、自他の対について「V-ている」と「V-てある」の違いを述べましたが、同じ他動詞についてもこの両方が使える場合があります。上の否定の「見て(い)ない」の例もそうです。

「NがV-てある」の場合は「他動詞+ている」の形にはなりませんから、「NをV-てある」の場合です。もちろん、主題化されて「Nは」になるか、省略されてしまえば、「が」か「を」かは問題になりません。「V-ている」のほうは、進行中ではなく、習慣的な動作で、その結果ある状態ももたらすような動作の場合です。

     彼はいつも窓を開けている。

     彼はいつも窓を開けてある。

     すぐとれるように机の横に辞書を置いている/置いてある。

 「V-ている」のほうは動作に中心があり、習慣的で、「V-てある」のほうは結果の状態に中心があり、目的意識が強く出ています。

 「V-ている」のほうは、進行中の意味にとれないことが文脈からはっきりわかっていなければなりません。「窓を開けている」だけでは、いま動作中なのか、結果の状態なのかあいまいになってしまいます。 

      

24.6 V-ておく

「V-ておく」はアスペクトとは言いにくいものですが、「V-てある」と近いところがあるので、ここで扱うことにします。 

 人があるものに対して何かをしたあと、それをその状態に「おく」ことを表わします。「おいた」ものはそのままそこにあり、また、後で使うこともあります。「V-ておく」も、その状態を変えないことと、それを後で使う、という二つの面があります。

 何かのための「準備」の例。

    パーティーのために、部屋を掃除しておきました。そして、料理を作っておき

    ました。ビールも買っておきました。

 部屋が掃除「してある」状態になり、料理が「作ってある」状態になります。

 「V-てある」のところでふれたように、「準備」というという意味で共通するところがあります。

    必要なものを 出しておく/出してある

「テアル」ような状態にすることが「テオク」です。

 「V-ておく」は意志的な行為なので、意志や依頼・命令の形にできます。

    これをやって おこう/おきましょう/おいてください/おけ

 「V-てある」のほうは、あくまでもそのことがなされた状態の視点から見ています。

 自分では何もせず、ある状態を変えないで、そのままの状態にする場合も使います。「放置」した状態です。

   「この窓、閉めておきますか?」「そうですねえ。そのまま開けておいてください」

    外出するときも、ラジオをつけておきます。

 「V-しないでおく」という言い方もできます。

    それは片づけないでおいてください。あとでまた使いますから。

    彼女には話さないでおいてください。びっくりさせたいから。

    毎日飲み過ぎだ。今日は飲まないでおこう。

「V-ておく」自体の否定は「V-ておかない」です。

    窓を開けっぱなしにしておかないこと。

 「V-しない」という意味の「やめる」もよく使われます。   

   「一杯どうですか」「いや、やめておきましょう」

 「状態」ということばからは少しはずれるかもしれませんが、次のような、あることのための「準備」として何かすることも「-ておく」で表されます。

    試験の前に、もう一度教科書を読んでおきます。

    このビデオ、見ておいてください。後で感想をお願いします。

しいて言えば、「読んだ状態」にして、次の行動に備えるわけです。

 自動詞でも、何かの準備としての動作なら「-ておく」になります。

    明日は忙しいから、はやめに寝ておきます。 

    マラソンのコースを二、三度走っておく。  

 対象に変化を与える動詞で、その後の状態を維持することを示す場合、「時まで」と「時までに」で違いが出ます。

    2時までに  出しておく/飾っておく/開けておく

    2時まで     〃     〃     〃    

 「までに」のほうは、ある動作をすること、そしてその後そのままにすることを意味します。上の例で言えば、「2時」の前のある時、例えば1時半に「出し」、その状態にします。2時をすぎても出ています。終わりはわかりません。「まで」のほうは、状態を変えないというだけです。「出す」ほうの時間はわかりません。例えば朝の9時に「出し」、その状態が続き、「2時」に終わります。

 また、「V-ておいてある」という言い方もあります。「V-ておく」の「準備」の意味と、「V-てある」の状態の持続の意味が重なって、準備は万全である、という意味合いになるのでしょう。あまり多く見る形ではありませんが。否定のところであげた例も同じです。

     彼にはくわしく説明しておいてあります。反対はしないでしょう。

     まだ皆には見せないでおいてあります。あなたが見せて下さい。


24.7 V-てしまう

動詞の後に「しまう」という動詞が補助動詞化して接続します。ふつうに使われる「しまう」の意味、「どこかにものを片づける」というような意味はありません。「しまう」の今ではあまり使われなくなったもう一つの意味、「終える」のほうから、後に述べるような使い方になったものです。

 特に東京語では、「V-てしまう・しまった」が「V-ちゃう・ちゃった」に短縮された形で非常によく使われます。

 「V-てしまう」は大きく二つの意味があります。一つは、あることが完了する・終わる、ことを表します。動詞は主体の意志的な動作を表わすことが多く、命令や意志の表現の中でも使われます。               

   1 本を全部読んでしまいました。

     早く食べてしまいなさい。

     ゆうべの風で木の葉が全部落ちてしまった。

もう一つは、それが終わるのは「取り返しがつかない・残念である」という意味を表します。無意志的動作が多いです。              

    2 つい、妹のお菓子を食べてしまいました。

      コップを落としてしまいました。

      金魚が死んでしまいました。               

 ただ、以上の二つの意味が重なっている場合も多くあります。

     疲れちゃった。        

     あのお菓子はもうなくなってしまいましたよ。

 基本的には「完了」の意味なのでしょうが、それに「残念」の意味がかぶさっています。

 特に自他の対との組み合わせで、次のような微妙な違いが出てきます。

     コップを割ってしまいました。

     コップが割れてしまいました。

単に「コップを割った」「コップが割れた」というだけなら、事実の描写に過ぎませんが、「-てしまう」をつけると「残念だ」という、その事実に対する話し手の態度が加わります。他動詞の場合は、自分のしたことに責任を感じているという意味合いになります。自動詞のほうは、そのことを残念に思っているというだけです。

 上に「-ちゃう」の形でよく使われると書きましたが、頻度が高くなると意味も軽くなり、「自分が意図しない結果になる」というだけの意味合いで使われるようです。

     冗談で受けたら受かっちゃってね、書類まで送って来ちゃったから、入ることに

     しちゃったんだけどね、まったくまいっちゃうよ。


[否定の形]

 否定の形「V-てしまわない」はあまり使われませんが、「完了」のほうの否定として、完了するはずだったけれど、という意味合いで使われます。 

     書類を全部捨ててしまわなかったのは失敗だった。

     あの時、辞めてしまわなかったから、現在の君があるんだよ。

 動詞の否定形を受ける場合「V-ないでしまう」もたまにあります。

     言おうと思いながら、ついに言わないでしまった。


24.8 V-ていく・てくる

「行く・来る」は空間的移動を表わす動詞ですが、それが「V-て」に続く補助動詞となると、空間的移動だけでなく時間の軸にそった移動(変化)も表わすようになります。

 

[もとの意味が生きている場合]                  

 二つの動詞に分けて考えても意味は変わりません。逆に言えば、「行く・来る」とは独立して行なえる動作の動詞です。              

     調べていく、見ていく、買ってくる、取ってくる        

 「調べて」から「行く」、「買って」から「来る」わけです。「来る」ほうの例では、ふつうは今いるところからまず「行って」「買ってくる」ことになります。日本語学習者にはこの点がちょっと混乱の種になるようです。

     デパートでランドセルを買ってきました。

     倉庫から部品を取ってきてください。

 「行って買う」のならわかりやすいのだが、ということのようです。


[並行する場合]         

 「行く・来る」のと同時にあることを行ないます。動作主自体の状態が一部変わるような動作を表わす動詞が来ます。

     持っていく、持ってくる、抱いていく、かぶっていく 

 「来る」途中ずっと「持つ」ということが並行しています。「抱く」「かぶる」も同様です。ただし、「ネクタイを締めていく」などという場合、「ネクタイを締めてから行く」のか「ネクタイを締めた状態で、行く」のかは結局同じことと考えられます。

 この用法が「行く・来る」以外の動詞に使われると、後ろの動詞が補助動詞ではなくなり、複文の「様子」(→52.1)という用法として扱われることになります。  

     辞書を持って歩く   帽子をかぶって働く


[行き方・来方を表わす場合]   

     乗っていく、歩いてくる、泳いでくる、飛んでいく  

 どのように「行く」のか、「来る」のかを表わします。そのような動きを表わす動詞です。「飛んでいく」の場合は、「非常に急いでいく」という意味になることもあります。  

 この用法で一つ興味深い点は、「V-ている」に似て、現在の進行中の動作を表す場合があることです。

     渡り鳥が南へ飛んでいきます。

     おや、向こうから田中さんが走ってきますよ。どうしたんでしょう。

 現在「走っている」わけで、「てくる」はその方向を表しています。これは本動詞としての「来る」にも見られることです。

     おや、向こうから田中さんが来ますよ。ちょっと隠れましょう。


[その動作の方向を示す場合]  

     投げてくる、押していく、昇っていく、落ちてくる

「行く・来る」は、動作の行なわれる方向を示します。「行く」は話し手、または話し手の「視点」が置かれている名詞から遠ざかる方向、「来る」は話し手(または視点が置かれている名詞)の方への動きを表わします。「投げてくる」は近づくほうへの、「押していく」は遠ざかるほうへの動きを表わしています。上下方向の動きの場合、どちらを使うかで話し手の位置がわかります。「上っていく」なら話し手は低い位置におり、「上ってくる」なら高い位置にいます。

 この場合も、「現在」を表すことができます。

     木の葉がひらひらと落ちてきます。秋です。

「木の葉が落ちます」では現在のことを表しにくいのですが、「V-てくる」にすると、今現在の動きを表せます。


[時間的な方向を示す場合]

 これがこの表現のいちばん特徴的なものです。時間が過去から未来へ流れると考え、過去から現在までの流れは「くる」で、現在から未来へは「いく」で表わされます。当然、「くる」は「きた」の形で使われます。 

     変わっていく、増えていく、太ってくる、暗くなってくる   

     時代はどんどん変わっていきます。

     この町もこれから発展していくでしょう。

     我が家の人口もここ数年で増えてきました。

     もうずいぶん明るくなってきました。

 ただ、実際にはもう少し複雑な使い方がなされます。例えば、朝早く、もうすでに明るくなっているときに、

     ずいぶん明るくなってきた。                 

と言えばわかりやすいのですが、まだ全然明るくなっていないときに、

     もうすぐ明るくなってくるから、それから・・・        

と言うと、初めの説明とは違う使い方です。これは、話し手の気持ちが「すでに明るくなった時点」にあり、そこから振り返って表現するからだ、といったような説明をすることになります。それで学習者が納得してくれるかどうかは、何とも言えませんが。    


[動詞の意味による制限]                     

 動詞によって、「行く・来る」のどちらかしか使わないようなものもあります。意味的に片方としか合わないのです。

 消失を表わす動詞は、ふつう「いく」としか使えません。        

     これまでにも戦争で多くの人が死んでいった。(×死んできた) 

     この計画のために、多額の金が消えていった。 

     図書館の本が次々と盗まれていく。  

「過去から現在まで」という意味合いをこめても、「きた」はだめでしょう。

 逆に、発生・出現を表わす動詞は「くる」とともに使われます。     

     雨が降ってきた。      

     霧の中から、古い城が現われてきた。     

     農薬などの影響によって、障害をもつ子供が生れてくるだろう。

 「やってくる」「やっていく」はほとんど一語化していて、それぞれ「遠くから来る」「その状態で続ける」などの意味を表わします。


24.9 V-た/ている/る ところだ

 アスペクトを表わす表現のなかで、ちょっと独特のものにこの「V-ところだ」があります。まずは例文を。

     今、帰ったところです。

     今、ちょうどやっているところです。

     今、始まるところです。

動詞のタ形・テイルの形・基本形に接続して、「直後・最中・直前」を表わします。上の例文ではみな「今」を付けましたが、ちょうどこの「今」の表わす三つの意味に対応します。

 では、「ところ」を付けない場合とはどう違うのか、が問題になります。

     今、帰りました。

     今、ちょうどやっています。

     今、始まります。

 「ところ」はもちろん場所ではありません。しかし、時間の流れを直線で表わし、その中の「ここ」という気持ちと考えれば、場所とのつながりが出てきます。ある出来事が始まり、続き、終わるという流れの中の「ここ」、今この場面だ、という意味合いで「~ところだ」を使うのでしょう。 

 ですから、単純な、例えば「Vている」との違いを考えると、

     「彼は今何をしていますか」「窓の外を見ています」

に対して、

     「彼は今何をしていますか」「窓の外を見ているところです」

はぴったりしません。と言うか、何か特別な文脈を考えたくなります。これを

     「彼は今何をしていますか」「服を着替えているところです」

とすると、ある行動のつながりが暗示され、次の行動に移るための準備という感じがするので、「ところだ」がぴったりします。         

     今やっているところです。

というと、急ぐように催促された時の言い訳の感じがしますし、

     今、駅に着いたところです。

では、次に「これから~」という文が来ることが期待されます。

     今、駅に着きました。

とすると、単純に「着いた」事実を述べているようです。

     今、行きます。

では、意志の表明という面をもちますが、

     今、行くところです。

となると、予定された行動の連続の一場面という感じがします。

     いやあ、ちょうど今、お届けにあがろうと思っていたところですよ。(言い訳)

 これまでの例は、「今現在の場面」を表していましたが、次の場合は「今」には関係ありません。たんにその「場面」を示します。

    (写真の説明)これは、試合が終わって、感想を話し合っているところです。


[いくつかの制限]

 なお、「V-ている」の用法の中で、状態を表わすものはこの「ところだ」の形にはなりません。

    ×死んでいるところだ

    ×来ているところだ

    ×割れているところだ

 どれもみな変でしょう。「着ているところだ」は「着た結果」ではなく、「着ようとする動作」の最中であることを表わします。

 そのほか、「×そびえているところだ」「×とがっているところだ」などもみな言いません。

    ?毎日学校へ行っているところだ。

のような習慣・繰り返しの用法も、ふつうは言えないでしょう。

     毎日学校へ行って、習っているところだ。(ちょうどそのことを)

なら言えますが。

 疑問文にはなりますが、否定文にはなりません。

     おや、出かけるところですか?

    ×いいえ、出かけるところではありません。

 過去のことも言えます。

     その時、私たちはちょうどその問題を話し合っているところだった。

過去のことで、そうなりそうだったがならなかった、という場合によく使われます。

     もう少しで/あやうく 落ちる/死ぬ ところだった。

 次に述べる「V-たばかりだ」は「V-たばかりのN」の形もありますが、「V-たところのN」というと、ぜんぜん違う意味になってしまいます。いわゆる関係代名詞の直訳に使われる形です。

     その会議で議論されたところの問題

現代語のふつうの言い方では、上の例の「ところの」は省略されます。


24.10 V-たばかりだ

 この文型も、あることのすぐ後、まだあまり時間が立っていないことを表わします。「V-たばかりのN」の形にもなります。

     今、焼いたばかりです。おいしいですよ。

     今、やっと読み終わったばかりです。 

     この分野はまだ勉強を始めたばかりですから、よくわかりません。

     洗ったばかりのシャツは気持ちがいい。

「V-たところだ」と似ているので、その違い、使い分けが問題となります。

     今、着いたところです。

     今、着いたばかりです。

上の二つはほとんど同じように使えるでしょう。しいて言えば、「ところ」のほうは、やはりいくつかの行動の流れの中で、今は「着く」ということが終わった時点であり、次には、、、という意味合いを感じます。「ばかり」のほうは単に「着く」ということが終わったあと、まだあまり時間が立っていない、というだけの意味です。含みとしては、「だからまだ(それ以外には)何もしていない」という意味合いがあります。そこをはっきりさせると、

     今、着いたところです。これから調査に取り掛ります。

     今、着いたばかりです。まだ調査は何もしていません。

とでもなるでしょうか。

「たばかり」は時間の短さを強調するのですが、物理的には長い時間でも、 気持ちのうえで短ければ使えます。

     先月結婚したばかりなので、まだ新婚気分です。 

 その意味では、「たところ」のほうが直後と言えます。時間の短さというより、「場面」が変わっていない、という意識です。外国から飛行機で成田空港に降り、誰かに電話をかけて、

     今、日本に着いたところです。

と言うとぴったりですが、成田から東京まで出てきてから同じように言ったらちょっと不適切でしょう。次の日に東京で誰かに会って言うなら、

     まだ、日本に着いたばかりで、何も見ていません。

となります。

 疑問文にはなりますが、否定文にはなりません。

     あなたは大学を卒業したばかりですか。

     ×卒業したばかりではありません。


24.11 ~たことがある 

 この文型もよく使われる表現で「経験」を表すと言われます。しかし、「経験」とは何なのかと考えると、きちんとした定義は意外に難しいものです。結局、ある人がこれまでにあることをしたことがある場合、「経験がある」と言う、などと言ってしまいがちです。それはともかく、例文を見てみましょう。

 例えば、外国人に対して、

     「刺身を食べたことがありますか」「はい、この前食べました」

     「歌舞伎を見たことはありますか」「いいえ、まだありません」

と質問するというようなのが、教科書の代表的な例文でしょう。この「が」は文脈によって「は」や「も」、そして「さえ」などの副助詞になります。また、回数を表す「三回」「何度(も/か)」などを「ある」の前に入れられます。

     タバコなんて、吸ったことはもちろん、触ったこともありません。

     見たことも聞いたこともない。

     私はくじ運がいいんです。宝くじの一等が当たったことさえ、三度もあります。

 あることの経験があるかどうかを聞くということは、そのことの経験がなくても不思議でないようなこと、言い換えれば、多少なりとも特別なことです。

     走ったことがありますか。

と言えるのは、そうでないことが予想されるような何らかの特別な状況、相手に限られます。

     42kmを走ったことがありますか。

という質問は意味をなします。

「経験を聞く」ということのもう一つの点は、「これまでに」というところです。「過去のある時にしたかどうか」ではなく、現在まで続いている時間の中に、そのことが「ある」かどうか、です。ただし、答えのほうは、ある特定の時を示してもかまいません。これは英語の「現在完了」とは違うところでしょう。

     三年前に、一度(歌舞伎を)見たことがあります。

 もう一つ、この「V-たことがある」で表される事柄は、現在とは切れていることが必要です。

     結婚していたことがあります。

と言えば、現在は独身であることがわかります。

     北海道に住んだことがある。

という人は、今は北海道に住んでいません。もちろん、

     前にもこの町に住んだことがある。

と言えば、「前にも」があるので、今も住んでいることと矛盾しませんが、かなり長い不在期間があったことを暗示します。

 動詞だけでなく、名詞述語・形容詞も受けることができます。

     若いころ、一文無しだったことがあります。

     こんな私でも、優等生だったこともあります。

     彼の判断が正しかったことは一度もない。

 否定の形を受けることもあります。肯定で表される状態の中で、否定で表される状況が起こります。

     一度だけ、時間に間に合わなかったことがあります。

     何となく学校に行きたくなかったことがよくあります。

 「こと」の両側に否定が現れる場合。

     私の判断が正しくなかったことはない。

「常に正しかった」ということの強調です。

 文末を過去にすると、回想的な気分が出ます。「これまでに」と言うより、「過去のある時期に」という、現在から離れた事柄です。

     子どものころ、叱られて泣いたことがよくありました。

     この大会で優勝したことがあります。(今回も出場)

     この大会で優勝したことがありました。(現役を引退)

かっこの中は、ちょっと極端に対照させてみたものです。「~た」にすると、はるか昔を思い出している感じがします。


[シタ・シテイル・シタコトガアル]

 「V-ている」も似たような意味を表すことができます。

     彼女は3年前に日本に来ています。

     彼女は3年前に日本に来たことがあります。

この2つの表現の違いと、さらに、

     彼女は3年前に日本に来ました。

との違いは何でしょうか。

 まず、「V-たことがある」は起こることが当然のことには使えません。

    ?彼女は3年前に大学を卒業したことがあります。

    ×生まれたことがある   ×死んだことがある

     この動物園で真っ白なパンダが生まれたことがある。

     彼は終戦の年に台湾で生まれている/生まれた。

 「V-ている」は多義なので、時の表現が必要です。

     彼女は日本に来ています。

とすると、たんなる結果の状態で、「今もいる」ことになります。「3年前に」を付けると、いたのはその時だけで、今はいないことが暗示されます。今もいるのなら、次のどちらかになるでしょう。 

     彼女は3年前に日本に来ました。

     彼女は3年前から日本にいます。

 たんに「来ました」とすると、今いるかどうかは考慮の外です。いることが文脈で明らかになっていれば、その始まりを示し、いないことが明らかなら、過去の訪問の時を示すだけです。


[~/ない ことがある]

 アスペクトの表現とは言えない文型ですが、形の関係があるのでここで触れておくことにします。この文型は、「常にAだ」とは言えない、ということを「Bすることがある」ことを指摘することで表す文型です。

     いつも来ますが、たまに休むこともあります。

     時々、私の家に寄ることもありました。

     いつもというわけではないが、金額が合わないことがある。

「たまに」や「時々」と共に使われることが多いのですが、それに限りません。

     こんな時は、雨が降り出すことがよくあります。

この例は、「予期しないことだが」という意味合いです。

     予報は、正しいこともありますが、はずれることもあります。

     男であることもあるし、女であることもある。

     雨のこともあるけれど、雪のこともある。

これらの例では、確率は半々です。「どちらかとは限らない」という意味です。動詞だけでなく、形容詞・名詞述語も受けます。

 

24.12 V-つつある

 話し言葉ではあまり使われない表現です。書き言葉で時々見かけます。特に、「ている」が結果を表す瞬間動詞の「進行」を言いたい場合に使われます。例えば、

     枯れている  落ちている  変わっている

などはふつう「動きの結果としての状態」を表しますが、現在その動きが途中であることを表したい場合は、

     枯れつつある  落ちつつある 

     時代は大きく変わりつつあります。

とします。

 否定の言い方がないのも一つの特徴です。「×枯れつつありません」

 「V-つつ」は複文を作ります。(→ 「47.並行動作」)

     いやだと言いつつ、やっている。     


24.13 V-(よ)うとする

 「V-(よ)う」は意志形です。この形と、その主な用法である意志表現については「32.4 V-(よ)う」を見てください。ここでは、派生的な用法であるアスペクト表現をとりあげます。「V-ようとする」という形で「将前」(まさにそうそうなる直前)を表します。

 まず、無意志動詞に接続する場合から見ます。

     開会式が始まろうとしています。

     夜が明けようとしていた。

 この例からもわかるように、書きことばで、多少文学的です。

意志動詞の場合、動作をこれから始めるところで、何か起こり、その動作をやめてしまうことが多いです。

     食べ始めようとしたとき、電話が鳴った。

     字を書こうとしたが、思い出せなかった。

     飛び込もうとして、やめた。

 この「V-(よ)うとする」は「32.8 V-(よ)うとする」でとりあげます。


24.14 複合動詞

 アスペクトに関する表現としては、以上のほかに「複合動詞」によるものがあります。動詞の中立形に他の動詞が接続して、一つの動詞となるものを複合動詞と言います。この後ろにつく動詞の中に、動きの過程のある面を示すものがいくつかあります。動詞の基本形・タ形、補助動詞のついた「V-ている」などの表現では表せない部分を、これらが補っているわけです。(複合動詞全体については「26. 複合動詞」を見てください) 


24.14.1 動きの始まり

①V-始める                           

    どうぞ先に食べ始めて下さい。  (意志動作)

    雪が降り始めました。もう冬です。(自然現象)

    私の子供も学校に行き始めました。(習慣の開始) 

     水が汚れ、魚たちが死に始めた。 (複数主体)


②V-出す (→ 26.3.1)

     雨が急に降り出した。

     それを聞いてみんな怒りだした。

     群衆が動き出した。

     円が上がり出した。

 「V-始める」は最もふつうに使われる「開始」の表現です。ある一つの動作の開始だけでなく、「毎日学校へ行く」という習慣的動作の開始や、複数の主体が同じことを次々とするということの始まりも表せます。

 次の「V-出す」は、本来は「外に出す」という意味で動きの方向を表すものですが、上の例のように動きの始まりも表せます。中に秘めていた動きが外に現れ、動き始めた、というような意味合いで使われるのでしょうか。

 「V-出す」が「V-始める」と違う点は、急に、突発的に、という意味合いがあることです。逆に、「V-始める」のほうは予定されたことに使えますが、話し手自身の突発的なことには使いにくくなります。

     ×私は急に笑い始めた。

     その時、私は笑いだしてしまった。          

 上に出した四つの例では、初めの二つは「始める」では言いにくく、後の二つは「始める」でも言えますが、そうすると多少「予想されたこと」という意味合いになります。

     群衆が動き始めた。(とうとう)

     円が上がり始めた。(どうなるかと見守っていたところ)

 「V-始める」は意志的な表現もできますが、「V-出す」ではあまり言いません。

     それでは、歩き始めよう。

    ?じゃ、歩き出そう。

 「V-出す」は結局、過去のある事実の描写に多く現れることになります。上の例文が全部「~た」になっているのはそのためです。もちろん、それ以外のことが言えないわけではありません。

     そろそろ鐘が鳴り出すだろう。

     彼女がこの話を聞いたら、きっと泣き出すよ。


③V-かける (→ 26.3.2)

     新聞を読みかけたが、すぐに止めた。

     私は彼に手紙を書きかけた。その時、その彼から電話があった。

     屋根の雪が少し落ちかけて、止まった。

 「V-かける」も他の使い方がいろいろありますが、ここでは、動きが少し始まって、そこで止まってしまうことを表します。

 次の例では、その動き自体は始まっていませんが、そちらへ向かう動きがあったことを表します。 

     交通事故で命を落としかけたことがあります。

 これも意志的な表現には使えず、過去の事実が多くなります。「V-かけたが、~」「V-かけた時、~」などの複文の形でよく使われます。

    ×手紙を書きかけよう。

 また、「V-かけだ/の」という形でも使えます。

     その作業はまだやりかけです。

     やりかけの仕事がありますので、ちょっと失礼します。

     食べかけの御飯を残して行ってしまった。

     行きがけの駄賃   

 上の「V-始める」や「V-出す」に「ている」がつくと、「動きの結果の状態」を表します。

     彼女はもう卒論を書き始めています。

     人類は破滅に向かって走り出している。

 「V-かける」の場合は、特に瞬間動詞の例が独特です。

     この象は死にかけています。

「死ぬ」という動きは瞬間的なものですが、そこへ近付いて行く動きを表すのに、この形が使えます。これは「死んでいる・死に始める」などでは表せないものです。

     太陽が沈みかけている。

     太陽が沈み始めている。  

 これは冗談みたいな話ですが、「始まる」には「V-始める」の形はなく、「V-かける」の形を使わなければなりません。

     映画が始まりかけている。(×始まり始めている)

 「V-出す」を「出る」につけると、

     玉がどんどん出だした。(パチンコで)

 ただし、「出出す」と書くわけにはいきません。

     恋人に電話をかけかけたが、やめた。

というのは、言いにくいだけで、文法的には問題ないでしょう。

 「V-かかる」は、自動詞に付きます。

     その木は枯れかかっていた。  

     乗りかかった船だ。 

     

24.14.2 動きの継続

①V-続ける・続く

     きのうは朝から晩まで小説を読み続けました。

     薬は途中で止めないで下さい。必ず飲み続けて下さい。

     物価は毎年上がり続けています。

     雨が降り続いています。

 動きの継続を表す複合動詞は、「V-続ける」です。読んで字のごとく、動作を「続ける」ことを表します。また、「上がる」のような自動詞にも接続します。

 「V-続く」は「降り続く」以外には、「うち続く災難」「引き続く」のような「続く」に接頭辞がついたと考えられるものしかありません。

 「V-続ける」が「継続」を表すとするなら、「V-ている」とはどう違うのかということが当然問題になります。前に述べたように、継続動詞「読む」は動きの動詞の常として、今現在のことは言えません。それと同じように、

「読み続ける」も動きの動詞ですので、今のことを言うには「ている」をつけなければなりません。                      

    ?いま、本を読み続けます。

     いま、本を読んでいます/読み続けています。

 結局、「V-続ける」はその継続動詞の「継続」という側面を強く表す、ということで、動詞としての時間的性質を変えるものではありません。

     良心的であり続ける

のように「-である」にも接続できます。    

                 

24.14.3 動きの終わり

①V-終える・終わる 

     やっと原稿を書き終えた/書き終った。

     荷物を部屋の中に運び終えた。

 人の動作、特に他動詞に接続する場合が多く、「終わる」のほうが話しことばです。      

②V-やむ

     赤ん坊がやっと泣きやんだ。

     ベルが鳴りやんだ。

 自然現象や、無意志的な人の行動に使われます。

③V-あげる (→ 26.3.3)

 完成を意味し、製作を意味する動詞につきます。主体の動作としては「V-あげる」となり、製作されるものを「Nが」とすれば、「V-あがる」の形も使える場合があります。

     レポートをやっと書きあげた。

     何とかレポートが書きあがった。 

     すばらしい作品を作りあげた。

 「読み上げる」は「読み終える」と「声を出して読む」の二つの意味があります。「する・できる」は「しあがる・できあがる」となりますが、これらはすでに一つの動詞でしょう。


24.15 時間表現のまとめ

24.15.1 アスペクト形式の重なり

アスペクトにかかわる形式を数多く見てきましたが、これらが重なって使われることがよくあります。多少不自然な作例ですが、

     みんなが走り始めているところです。

     全額を払い終えてしまったばかりです。

     わからなくなってきてしまったことがある。

     焼きかけておいてあったところだ。

     時代は大きく変化して行こうとしていた。

のようになります。どういう形式がどう重なるかは難しいのですが、「V-テ」に接続する補助動詞は、むろん「ル/タ」より前に現れます。複合動詞はいちばん動詞よりです。つまり、 

            テイク    テシマウ       テイル       ル

 動詞+ 複合動詞+      +      +   テアル    +

            テクル     テオク       ツツアル      タ

のように続き、その後に

     ~トコロダ/バカリダ/コトガアル

などの複合形式が続くのがおおよその順序です。これらの複合形式は、形式名詞あるいは副助詞の前に「ル/タ」の対立を置くことができます。この「ル/タ」の対立がテンスの対立なのかどうかというのはまた難しい問題です。また、その後にさらに「-た」をつけることができます。

     した ところだった/ばかりだった/ことがあった

ここで注意すべきことは、「テイル・テアル」の前のところまでは、(「テイク・クル」の一部の用法を除いて)一般の動きの動詞と同じで、そのままでは現在のことを表せないことです。「テイル」などを付けてはじめて現在の状況を表すことができます。


24.15.2 事柄の「時」の表し方 

 日本語の時間表現のうち、述語によって表されるテンスとアスペクトについて長く見てきました。「23.テンス」の初めのところで述べたように、述語以外にも、時に関する補語や副詞が重要な役割を果たします。

 それらによって、ある事柄の起こった時とその時間的性質を表します。まず、テンスによって、事柄の起こる時を「過去・現在・未来」と一応分けることができるのですが、アスペクトがからむと、「完了」などの過去と現在をつなぐ表現が生まれます。

     3時に来た。 (過去)

     もう来た。   (完了)

     もう来ている。 (完了)

     3時に来ている。 (記録)

     今、来ている。 (現在)

 そしてその動詞自体の性質と、他のアスペクトが、その事柄自体の性質、瞬間的なことか、継続することか、事柄の始まりか終わりか、などを表します。

 アスペクトは動詞だけで決まるものではありません。前に見たように、「寝る」は「9時に寝る」と「9時間寝る」では意味が違います。また、「焼ける」という動詞は、「(肌が)日に焼ける」と「肉が焼ける」では時間的性質が違います。「3時に来た」と「もう来た」では現在との関係が違ってきます。このように、時の補語や他の補語、それに副詞がその事柄の時間的性質の決定に重要な役割をもっています。

 アスペクトは動詞にだけ関係するものとして述べてきましたが、他の述語も、文全体としての時間的性質を考えると、動詞のアスペクトと同じように扱うことになります。

名詞文・形容詞文は、状態動詞と共に「状態述語」としてまとめられることを「23.テンス」の初めで述べましたが、「V-ている・てある」なども現在を表すことができ、状態述語に入ります。ただし、その「状態性」の程度にはいろいろ違いがあると考えられます。

 また、その違いは、文全体の性格の違いによるとも言え、「は」のところで紹介した「品定め文」と「物語り文」の区別にもつながります。そしてそれは「は」と「が」の使い方にも関係します。

 以上は、単文に関する時間表現の話です。単文は一つの事柄を表しますが、複文は二つ以上の事柄を表しますから、その間の時の関係は複雑で、複文の中の時の表現にはさらに複雑な表現が必要になります。


参考文献

益岡隆志・田窪行則 1992『基礎日本語文法 改訂版』くろしお出版 

寺村秀夫 1978『日本語の文法(上)』国立国語研究所     

寺村秀夫 1982『日本語のシンタクスと意味I』くろしお出版   

砂川由理子 1986『セルフマスターシリーズ2 する・した・している』くろしお出版

金田一春彦編 1976『日本語動詞のアスペクト』むぎ書房

高橋太郎 1985『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』秀英出版

工藤真由美 1995『アスペクト・テンス体系とテクスト』ひつじ書房

加藤泰彦・福地務 1989『テンス・アスペクト・ムード』荒竹出版

小矢野哲夫「国語学におけるテンス・アスペクト観の変遷」

吉川武時「日本語教育におけるテンス・アスペクトのあつかい」

田村澄香2000「名詞文のテンス的意味の考察」『日本語教育』106

青山文啓1984「表現型とアスペクト」『日本語と日本文学』4筑波大学

新川忠1988「国広哲弥の新アスペクト論」『教育国語』95むぎ書房

奥田靖雄1978「アスペクトの研究をめぐって」(上)(下)『教育国語』53・54むぎ書房

奥田靖雄1988「時間の表現(1)」『教育国語』94むぎ書房

奥田靖雄1988「時間の表現(2)」『教育国語』95むぎ書房

奥田靖雄1997「動詞(その一)-その一般的な特徴づけ」『教育国語』2・25むぎ書房

尾上圭介「現代語のテンスとアスペクト」

北村よう「日本語におけるアスペクトとaspectual character-~ヨウニナルという表現をめぐって-」

金水敏2000「時の表現」『時・否定と取り立て』岩波書店

草薙裕1981「日本語のテンス、アスペクトの解析のアルゴリズム」筑波

工藤真由美1987「現代日本語のアスペクトについて」『教育国語』91むぎ書房

工藤真由美1996「否定のアスヘ゜クト・テンス体系とディスコース」『ことばの科学7』むぎ書房

工藤真由美2001「述語の意味類型とアスペクト・テンス・ムード」『言語』12月号大修館

呉鐘烈「アスペクトと局面動詞」不明・紀要

小矢野哲夫1978,"「打消助動詞「ない」の一特性-アスペクトを表わす場合-」『日本語・日本文化』8大阪外語大学

須田義治1994「時間的なありか限定性」『日本語学科年報』16東京外国語大学

ポリー・ザトラウスキー19 「プラグマティックスから見た日本語の動詞のアスペクト-特に否定形の場合において」

守屋三千代1995「『動詞テ形+動詞』の構造-アスペクト的観点から見て-」『阪田雪子先生古稀記念論文集 日本語と日本語教育』三省堂

守屋三千代1995「日本語の「アスペクト論」に関するおぼえがき『日本語日本文学』4創価大学

森山卓郎1984「アスペクトの意味の決まり方について」『日本語学』12月号明治書院

森山卓郎「日本語アスペクトの時定項分析」『論集現代語研究』

Emiko Sugita「Tense and Aspect of Verbs in Adnominal Clauses in Japanese」

益岡隆志「日本語の補助動詞構文-構文の意味の研究に向けて-」

丹羽哲也1996「ル形とタ形のアスペクトとテンス-独立文と連体節-」『人文研究』第48巻第十分冊大阪市立大学文学部

寺村秀夫「'タ'の意味と機能-アスペクト・テンス・ムードの構文的位置づけ-」

池田英喜1996「経験をあらわす「シタコトガアル」について」『待兼山論叢』30日本学篇大阪大学文学部

高橋純1996「「~つつある」について」『日本語教育』89

副島健作1998「現代日本語の不完結相-シツツアルの意味記述-」『日本語科学』4

福島健作1998「シツツアルに関する一考察」『日本語教育』97

杉村泰1996「形式と意味の研究-テアル構文の2類型-」『日本語教育』91

原沢伊都夫1998「テアル形の意味-テイル形との関係において-」『日本語教育』98

山崎恵1993「「~てある」の意味と文型」松田記念

山本裕子2001「聞き手とベースを共有することを表す「~てくる」「~ていく」について」『日本語教育』110

藤代浩子1996「シテイタのもうひとつの機能-感知の視点を表すシテイタ-」『日本語教育』88

工藤真由美1982「シテイル形式の意味記述」『武蔵大学人文学会雑誌』4

工藤真由美「シテイル形式の意味のあり方」国広哲弥1987「アスペクト辞「テイル」の機能」『東京大学言語学論集'87』

谷口秀治1997「テイル形に関するムード的側面の考察」『日本語教育』92

中村英子1997「動作動詞テイル形の「反復」について-「反復」の解釈が生まれる諸条件-」『日本語教育』93

守屋三千代「日本語の継続相再考-日朝対照を通して-」不明・紀要

渡辺義夫「アスペクチュアルな意味を実現する条件についての考察-シテイルのばあい-」

池田英喜1998「「シテイル」vs’PERFECTIVE’’IMPERFECTIVE’-非形態的アスペクト論に向けての試論-」『現代日本語研究』5大阪大学

石川守1986「くりかえしの[~ている]と確定の[~た]の用法をめぐる考察」『語学研究』45拓殖大学語学研究所

今仁生美1990「VテクルとVテイクについて」『日本語学』5月号明治書院

谷口秀治2000「「~ておく」に関する一考察-終結性を持つ用法を中心に-」『日本語教育』104

長野ゆり1995「「~ておく」の用法について」『現代日本語研究』2大阪大学

山崎恵1996「「~ておく」と「~てある」の関連性について」『日本語教育』88

山本裕子2000「「くる」の多義構造-「くる」と「~てくる」の意味のつながり-」『日本語教育』105

吉村近男1986「「てくる」構文の「て形」の接続関係」『日本語・日本文化』13大阪外国語大学

鈴木智美1998「「~テシマウ」の意味」『日本語教育』97

橋本修・松本哲也「「てしまう」と「ない」との共起について」

守屋三千代「「シテシマウ」の記述に関する一考察」早稲田語学教育センター?

川越菜穂子1995「トコロダとバカリダ」宮島他編『類義上』くろしお出版

工藤真由美1989「現代日本語のパーフェクトをめぐって」『ことばの科学3』むぎ書房


niwa saburoo の日本語文法概説

日本語教育のための文法を記述したものです。 以前は、Yahoo geocities で公開していたのですが、こちらに引っ越してきました。 1990年代に書いたものなので、内容は古くなっていますが、お役に立てれば幸いです。

0コメント

  • 1000 / 1000