25.1 概観
25.2 受身
25.3 使役
25.4 可能
25.5 自発
25.6 自他動詞との関係
25.7 V-テアゲルなど
25.4 可能
可能表現は、可能性、つまり、あることが起こるかどうかを実際の問題として問うのではなく、その主体に内在する能力・属性としてとらえます。
可能表現の形式は大きく二つに分けられます。一つは動詞の基本形に「ことができる」を付けたもので、もう一つは動詞の可能形を使うものです。動詞は意志動詞に限られます。
あの人は中国語を話すことができます。
あの人は中国語が話せます。
日常の話し言葉では、短いほう、つまり可能形がよく使われますが、書き言葉では「V-ことができる」の形がよく使われます。
日本語教育の初級では、可能形という活用形の難しさということを考えて、「V-ことができる」の形を先に提出することがあります。話しことばとしては冗長であまり勧められない言い方ですが、言い間違い、聞き間違いの危険性が少ないということを重んじるのです。意味的には、上の例でも分かるように特に違いはありません。では、それぞれをもう少しくわしく見ていきましょう。
25.4.1 可能形
可能形の作り方
五段動詞 語幹に -eru(emasu)を付ける
yom-u → yom-eru 書く→書ける 打つ→打てる
一段動詞 語幹に-rareru(raremasu)を付ける
起きる→起きられる 食べる→食べられる
不規則動詞
する→できる 来る→来られる
五段動詞の場合、可能形自体は一段動詞として活用します。「読む」と「読める」ではずいぶん形が違うようですが、それぞれをマス形にすると、
読む:読みます 読める:読めます
となって、母音の -i- と -e- の違いだけになります。これは学習者にとっては聞き分けにくく、また言い分けにくいものです。ですから、初めに述べたように、「~ことができる」のほうが使いやすいということになります。
これをボイスに入れるのは、助詞の交替があるからです。他動詞の対象の「Nを」が「Nが」になり、「は・が文」になります。単一の動詞「できる」と同じ形です。
彼は中国語の新聞を読んでいます。
彼は中国語の新聞が読めます。
彼は中国語ができます。
ただ、このガ/ヲの交替は、「できる」の場合とは違って、義務的なものではありません。特に、スル動詞の場合や、否定の場合、「Nが」と動詞の間が離れている場合は「Nを」のままでもかまいません。
練習メニューを何とか消化できた。
大きな声で夢を語れなくなった。
こんな難しい本を辞書なしですらすら読めるなんてすごい。
「を」以外の助詞は変わりません。場所の「Nを」も「が」になりえます。
歩いて大学へ行ける。
橋ができて、かんたんに川が/を 渡れるようになりました。
何とか大学が/を 卒業できました。
また、主体の「Nは」が対比の意味を帯びたりすると、「Nには」の形になることがあります。「は」の後ろに隠れていた「に」が出てくるのです。
こんな難しい本は私にはとても読めません。
これは、小学生には書けない文章だ。
この「Nに」は能力の「持ち主」を表します。
[「起きれる・食べれる」という形について]
可能形の形として、新しい形が広まりつつあります。一段動詞に「-られる」を付けるのではなく「-れる」を付けた形です。
起きる → 起きれる 食べる → 食べれる
見る → 見れる 出る → 出れる
この形については、さまざまなことが言われていますが、今のところ、日本語教育ではまだ認められた形とは言えません。尊敬や受身とは別の形になるので、機能が分化することになり、言語構造からすると好ましい変化なのですが、やはりそれ以前の文法形式が身に付いた人にとっては「崩れた形」という意識を捨て切れません。話しことばでは許されるが、書きことばではまだ認められていない、ということにしておくのがよいでしょう。
また、使用頻度の低い動詞や、形の長い動詞ではまだこの形が使われにくいということもあるようです。
かかえる →?かかえれる にげのびる →?にげのびれる
25.4.2 V-ことができる
この形は「Nができる」のNの所に「V-こと」が入っている形ですから、後で複文のところで扱う「名詞節」になります。しかし、日本語教育では、「V-ことができる」全体を一つの複合述語として扱うことが多いようです。そのほうがわかりやすく、練習もしやすいからです。ここでもそのように考えることにします。
作り方はまったくかんたんです。動詞の基本形に「ことができる(ます)」を付けるだけです。
中国語が話せる。
中国語を話すことができる。
ただし、否定文は注意が必要ですす。「中国語を話す」の例で言うと、否定されるのが「中国語」なのか、「話すこと」なのかで違ってきます。
あの人は中国語を話すことはできません。
25.4.3 意味
「話すこと」を否定したい場合は、「が」を「は」にしたほうが自然です。これは「Nができる」の場合と同じですから、特に難しいことではありません。「中国語」の否定は、「話せない」を使う方がふつうでしょう。
あの人は中国語は話せません。(英語は話せます)
次の文はいかにも冗長です。
あの人は中国語は話すことができません。
この文型の一つの特徴は、「が」のところに「は・も・さえ・ぐらい」などの副助詞が容易に入りうることです。
話すことも、書くこともできます。
目をつぶって将棋を指すことさえできる。
動詞の可能形で同じことを言おうとすると、形式動詞「する」を使った硬い言い方になってしまいます。
話せも書けもします。
?目をつぶって将棋を指せさえする。
25.4.3 意味
可能表現の意味は、ふつう大きく二つに分けられます。一つはある主体がその動作を実現する可能性を持っていること、つまり能力を持っている、ということを表わします。「能力可能」と言います。上の「中国語が話せる」などはこの例です。
もう一つは「状況可能」で、ある条件が満たされるような状況で、あることが可能になる、ということを表わします。ですから、これは「誰に」という個人は問題にしない場合も含みます。
日本語ではこの二つは特に区別されないので、どの例がどちらかということを特に気にする必要はありませんが、学習者の言語によってはこれらを区別することがあるので、そういう分け方があることは知っておいたほうがいいでしょう。
日本語の可能形はそれとはまた違った意味の広がりがあります。
私は ピアノがひけます/泳げません/ワープロが打てます。
この問題は、私には解けません。あの人なら解けるでしょう。
明日、6時に 来られますか/起きられますか/会を開けますか。
彼女のことが忘れられません。どうしたら忘れることができるでしょうか。
今の政府では、この問題は解決できない。
この文型は「ボイス」の文型に含めることができる。
プールは1時から使えます。ただし、子どもは入れません。
会議室ではタバコは吸えません。ロビーで吸って下さい。
この布は、ふつうのはさみでは切れません。
この水道の水は飲めません。あちらのは飲めます。
信じられないことが起こった。
初めのほうの例は、「Nは」が何らかの能力、または潜在的な力(起きられる・忘れられる)を持つかどうかを表していますが、後のほうの例は、何かがそのような性質を持つかどうかを表しています。「水が飲める」のは、飲む人の力ではなく、その「水」自体の持つ性質(この用語が適当かどうかは別にして)です。
「飲む」は「人が水を飲む」という補語の型を持っていますが、ここでは「人」が消えてしまって、「水が飲める」という自動詞に近い型になっています。
過去形の意味を考えてみましょう。
学生の時は、15キロを1時間で走れた。
昔はこの川でも泳げたが、今は水質汚染で泳げない。
花粉症で鼻が詰まって夕べもよく眠れなかった。
3時間かかって、中学入試の幾何の問題がやっと解けた。
やった!とうとう100メートル泳げた!
過去にある能力があったということ、あるいは、あることを可能にする状況があったということ、などは現在形の意味と対応します。しかし、「解けた」「泳げた!」などの例は、ある事柄の可能性の「実現」という意味合いが生まれています。
100メートル泳いだ。
100メートル泳げた。
「泳いだ」は、過去のある事実の報告です。「泳げた」も「昔は~」なら、過去の能力を表すだけですが、上の「やった!~」のような場合は、具体的・個別的な事実の報告です。
現在形は「可能性の内在」を表しますが、この過去形は「過去の可能性」の有無を表しているというより、「過去における可能性の実現」を表しているということになります。つまり、「あることが起こった」という一般の動きの動詞の過去に近くなっています。
可能形に「-ている」が付けられることがあります。可能形自体が状態動詞なのですが、それに「-ている」が付くのは、その可能性の実現を意味する場合です。
彼は静物画が上手に描ける。
この静物画はうまく描けている。
「彼は絵が描ける」は潜在的な能力ですが、「うまく描けている」は現実に存在する絵の評価です。そのような意味合いにならない場合は、別の意味に解釈されてしまう場合もあります。
彼はこの金庫がかんたんに開けられる。(可能:彼の能力)
この金庫はかんたんに開けられる。(可能:金庫自体の性質)
この金庫はかんたんに開けられている。(受身)
25.4.4 V-わけにはいかない(いきません)
可能の意味を表す他の形式を見ておきます。これらは格助詞に影響しないので、「ボイス」の形式とはしませんが、可能形に代わって使われるので「可能表現」の一部ではあります。
まず、形式名詞「わけ」を使った文型から。動詞の基本形とその否定の形に接続します。動詞「いく」の否定の形と同じ形になります。過去もあります。
主賓がいないのに、会を始めるわけにはいきません。
ここでやめるわけにはいかない。
何があっても、行くわけにはいかない。
頼まれれば、断るわけにはいきませんでした。
そうしたくても、あるいは、そうしたほうがいいのだけれども、ある事情からそうできない。そして、その事情とは多分に心情的なもののようです。動詞の主体は人です。
このプールは、会員以外は泳げません/3時以後は使えません
のような規則による場合は「わけにはいかない」は使えません。能力可能と状況可能の二分法では、状況可能に近いのですが、もっと狭く、微妙な意味合いを持っています。
「わけ」は形式名詞で、「そういう」で連体修飾することができます。
「見逃してくれ」「いや、そういうわけにはいかないよ」(そういう=見逃してやる)
否定形を受けた「V-ないわけにはいかない」は「36.義務・必要・不必要」でとりあげます。
25.4.5 V-うる/える
可能性の有無を表します。動詞の中立形に接続します。「-うる」は基本形だけで、他は「-える」の活用形を使います(しえない・しえます・しえた・しえよう、など)。硬い書きことばです。非意志動詞にも付けられます。
時間内に解決しうる/しえる 問題を取りあげましょう。
その美しさは、私の力では表現しえない。
私が言いうることはこれだけだ。
以上の例では、「可能形・V-ことができる」のどちらも使うことができますが、以下の例ではできません。ここが「V-うる/える」の特徴的なところです。
そんな事故は起こりえない。(×起こられない/起こることができない)
なるほど、それはありうることですね。
学生の模範たりうる(模範となりうる)教師であれ、なんて無茶だ。
25.4.6 V-かねる
動詞の中立形に接続します。いろいろな事情のために「V-できない、困難だ」という否定的意味を表します。「たとえそうしたいと思っても」というような状況を想像させます。「わけにはいかない」と近い表現です。かなり硬い、改まった表現です。敬語とともに使うことができます。「そうするべきなのかもしれないけれども」といった、相手に配慮した言い方ですが、「できない」ということはかなりはっきり言う表現です。
今回の処分は、私としては納得しかねます。
そのことは私の口からは申しかねます。
悲惨な状況を知って、すぐには立ち去りかねた。
「見かねて・・・する」という言い方もよく使われます。
彼の家族がひどく困っていたので、見かねて少し金を貸してやった。
25.5 自発
「自発」というのは、「あることが、自然に、ひとりでに起こる」というような意味合いを表わす言い方に付けられた名前です。「自発的に」起こる、ということでしょう。具体的に、自発とされる表現の範囲は、学者によってかなり違うようです。ここでは比較的狭くし、それ以外のものは「自発的意味をもつ表現」としておきます。
では、具体的な例をいくつか。
学生時代のことが、懐かしく思い出されます。
(私には)カバンがいつもより重く感じられた。
あのときの失敗がつくづく悔やまれる。
私の考えでは、その必要はないと思われます。(私には~)
これらの動詞の形は、みな受身形と同じです。そして、動詞の意味はみな精神的活動を表わすものです。主体は、基本的には話し手です。省略されることが多いのですが、示される場合には「私は」「私には」の形になります。最後の例のように「私の考えでは」などの形で主体を示すこともあります。
自分の心の動き、感覚を自分のものとして、責任をもって表現するのではなく、自分の気持ちとはかかわりなく、自然にそうなってしまうのだ、という意味合いを持たせる表現です。元の動詞を使った文と比較してみて下さい。
学生時代のことを懐かしく思い出します。
(私は)カバンをいつもより重く感じた。
あのときの失敗をつくづく悔やむ。
私はその必要はないと思います。
どれも他動詞で、「Nを」あるいは「文+と」をとります。自発表現ではその「Nを」が「Nが」になり、元の主体の「Nが/は」が「Nには/は」になったりします。可能と同じように、その作用の持ち主が「Nに」で表されるわけです。
疑問文で聞き手が主体になれることは、感情形容詞などと同じですが、あまり使われません。
その瞬間、体が軽く感じられたんじゃありませんか。
三人称(彼・彼女など)が主体になる文は、小説などの登場人物に関する描写としては使われます。
彼には、カバンがいつもより重く感じられた。
はっきり批判することは、彼の性格からは少々ためらわれたのだ。
次に、「自発的な意味を持つ表現」を見てみます。ある事柄を、何らかの人為的な・意志的な行為の結果、あるいは何らかの原因によって起こるものと考えず、自然にそうなった、ととらえる表現です。他動詞と対をなす自動詞のなかに、自発的な意味をもつものがあります。
昨夜の火事で、家が十軒焼けた
ガラスが割れる(音がする)
ボタンがとれそうだよ
歯が抜けた
沖に白帆が見える (以上 寺村秀夫例)
それらの自動詞は、それぞれ対応する他動詞「焼く、割る、とる、抜く、見る」の語幹に「-eru」を付けた形になっていて、派生形と見なすこともできるものです。これらも「自発」とする考えもありますが、ここでは、すでに見たような受身形と同じ形の精神的な活動の意味の動詞だけに「自発」の意味を認めることにしておきます。
自動詞の中には、このような自発的な意味を持つもの、可能表現に近いもの、自然現象を表すもの、そして意志的な動作を表すものなど、さまざまな意味合いの広がりがあることになります。
25.6 ボイスと自・他動詞との関係
それぞれのところでちょっと触れたように、ボイスの各形式は自動詞・他動詞と意味用法が密接に関連しています。ここで少しそれを見てみましょう。
25.6.1 受身・可能・自発と自動詞
[受身]
他動詞の受身と、それに対応する自動詞は、かなり近い意味を表します。
会議は1時から始まった。
会議は1時から始められた。
風で木が倒れた。
風で木が倒された。
彼は面接試験で落ちた。
彼は面接試験で落とされた。
彼の努力によって、古くからの慣習が大きく変わった。
彼の努力によって、古くからの慣習が大きく変えられた。
描写している現象は同じですが、自動詞のほうは、その現象そのものを表し、受身文はそれを起こした行為者・原因の存在を示す効果があります。最初の例は、受身のほうも行為者を明示しない効果がありますが、明示しなくともその存在は示されているわけです。それに対して自動詞のほうは、「会議」それ自体の動きとして「始まる」ということが起こった、という表現です。
[可能]
他動詞の可能形と自動詞の一部も、同じような状況を表すことができます。
どうやっても曲げられなかった。
どうやっても曲がらなかった。
何とか全部かばんに入れられそうだ。
何とか全部かばんに入りそうだ。
人の努力によって実現の可能性が出ているというとらえ方と、それをその物自体の状態変化の可能性としてとらえる表現との違いです。
よく問題になるのは、「見える・見られる」「聞こえる・聞ける」という二組の動詞です。「見える・聞こえる」を可能形とする本もありますが、やはり自動詞としておくほうがいいでしょう。もちろん「見られる・聞ける」は「見る・聞く」の可能形です。
前の建物がじゃまで、満月が見えない。(物理的に)
猫は暗いところでもよく目が見える。(生理的に)
衛星放送でシドニーのオリンピックが見られる。(ある方法で)
このような現象は、地球上のどこでも見られる。(条件があえば)
教壇が遠くて、声がよく聞こえない。(物理的に)
百歳になったが、まだよく耳が聞こえる。(生理的に)
このラジオならイギリスのBBCが聞けます。(ある方法で)
本当の名人の落語が聞けなくなってしまった。(条件がない)
この使い分けは物理的・生理的なら自動詞、ある条件や方法次第でなら可能形、となります。
「売れる」という動詞は、他動詞「売る」の可能形とも、一つの自動詞とも考えられます。
今、この本がよく売れています。
(?この本をよく売ることができる)
という場合は、自動詞ですが、
彼は10台しか車が売れなかった。
彼は10台しか売ることができなかった。
では「売る」の可能形です。次の例では微妙です。
車は10台しか売れなかった。
二つの意味にとれます。自然に「売れた」か、努力して「売った」か、という違いです。
[自発]
この本では自発の表現を精神的な活動の動詞に限ったので、それらは自他の対応のある動詞ではありませんから、比較される自動詞はありません。むしろ、もともとの他動詞表現との微妙な意味の違いが問題となります。
「自発」のところで、自発的な意味を持つ動詞として、「-eru」の語尾を持つ自動詞のことを述べましたが、「-aru」の語尾を持つものにも、同じような自発的な意味を持つものがあります。
傷口がふさがる
とげが刺さっている
指がはさまってしまった
25.6.2 使役と他動詞
使役は自他の対応のある他動詞と近い表現です。
子どもたちを家に帰らせた。
子どもたちを家に帰した。
軍隊を前に進ませた。
軍隊を前に進めた。
使役のほうは、多少なりとも「Nを」の名詞自身の行動という意味合いが感じられます。他動詞の「Nを」は行為を受けるだけの対象です。
子どもを台の上に立たせた。
×子どもを台の上に立てた。
×棒を台の上に立たせた。
棒を台の上に立てた。
見張りを立てた。
「立たせる」は動作の主体の意志が必要です。逆に、人に対して「立てる」は使えませんが、「見張り」の例では可能で、なかなか微妙です。
「着る:着せる」は自他の対応ではありませんが、使役形との使い分けがある例です。「見る:見せる」も同様です。
子どもに自分で服を着させた。
子どもに服を着せた。
書類を勝手に見させておいた。
間違って人に見せてしまった。
25.7 V-てあげる/くれる/もらう
25.7.1 「恩恵」の授受
前に、「やりもらい動詞」として「あげる・くれる・もらう」などの用法を説明しました。(→ 4.4.2)ここでは、それらの動詞が補助動詞として他の動詞のテ形に接続した場合の用法について考えてみましょう。前の説明から類推できる部分もありますが、だいたい同じだと思ってしまいますと、かえって誤りを招くところもありますので、注意が必要です。
私はタンさんに日本語を教えてあげました。
タンさんは私に中国語を教えてくれました。
私はタンさんに中国語を教えてもらいました。
また、この表現は日常の生活の中で非常によく使われるものですし、日本的な「恩恵」の観念がはっきりと表され、いわゆる「日本的なものの考え方」をよく示すと言われる文型でもあります。
基本的なやりもらい動詞の型は次のようにまとめることができます。
[人が][人に][物を] やる/あげる/さしあげる
[人が][人に][物を] くれる/くださる(主に「私に」)
[人が][人に/から][物を] もらう/いただく
それに対して、「V-て」のついた「やりもらい複合述語」の文型はこうなります。
[人が] V-て やる/あげる/さしあげる
[人が] V-て くれる/くださる(私に)
[人が][人に]V-て もらう/いただく
「V-てもらう」だけに「人に」があることに注意しておいてください。
次に、その意味ですが、上に出した基本的な例文で考えてみましょう。これらの場合、何を「あげ」たり「もらっ」たりするのでしょうか。単なる「あげる」が「物をあげる」のに対して、「V-てあげる」は、「V」の示す動作を誰かのためにすること、言い換えると、相手のために何かをするというその動作を「あげる」こと、堅苦しい言い方をすれば「恩恵の授受」を示すのが基本です。上の例で言うと、「私」が「私」が「タンさんに日本語を教える」ということをタンさんのためにする、ということを表しています。「V-てくれる」はもちろん「タンさん」が「私」のために、「V-てもらう」はその同じことを「私」を主体として表します。
「やりもらい動詞」に関する人称の制限は、補助動詞となっても同じです。
たとえば、次のような文は不自然です。
×タンさんは私に中国語を教えてあげました。
×タンさんは私に日本語を教えてもらいました。
?タンさんはあなたに日本語を教えてもらいましたか。
これらの制限については、「4.4.2 やりもらい動詞」をもう一度見てください。
日常の会話の中では、「誰が誰に」ということを省略することが多く、学習者にとって非常に理解が難しくなります。やりもらいの表現は、「あげる・くれる・もらう」の使用によってその恩恵の方向が示され、つまり「誰が誰のために」ということが言わなくてもわかるので、一般の動詞以上に名詞が省略されやすくなります。本動詞自体がやりもらい動詞で、それにさらに補助動詞としてこれらの表現が接続すると、非常に込み入ったことになります。
1 A:あれ、かってくれた? (BがAのために)
B:ああ、買ったよ。
2 A:あれ、買ってくれた? (誰かがBのために)
B:ああ、買ってもらったよ。 (Bが誰かに)
3 A:あなたの絵、買ってもらったの? (Bが誰かに)
B:買ってもらったんじゃない。売ってやったんだ。(Bが誰かに)
4 A:あたし、行けないから、これ、あげてくれる?
B:いいよ。(BがAのためにCに)
5 A:これ、もらってくれる? (BがAのために、Aからもらう)
B:そうね。じゃあ、かわりにこれをもらってもらおうかな。
(BがAに「てもらう」、AがBからもらう)
6 A:ふつつかな娘ですが、どうぞもらってやって下さい。
(誰かがAのために「娘」をもらう、それをAが頼む)
これらの表現を聞いて、瞬間的に状況を理解するのは大変なことです、
25.7.1「恩恵」の授受
[目上に対する制限]
話し手自身が「恩恵の与え手」となる場合は注意が必要です。このことは「4.4.2」でも述べたことですが、話し手が目上の人に対して「V-てあげる/さしあげる」を使うと失礼になります。自分が恩恵を与える立場、つまり心理的に上位者になってしまうからです。
?先生、荷物を持ってあげます。(荷物をお持ちします)
?社長、お手伝いして差し上げましょう。
[恩恵の受け手]
その恩恵の「受け手」の表わし方は様々です。初めの例は分かりやすい例で、「人に英語を教える」のですから、その「人」が恩恵の受け手になります。つまり、「V-てあげる・くれる」の場合は、「に」で示されている「タンさん」「私」で、「V-てもらう」の場合は「私」です。
これはちょうど「物をあげる・くれる・もらう」の文で、物の受け取り手となる人と同じです。
では、次の例ではどうでしょうか。
弟の宿題を手伝ってやりました。
おじいさんの荷物を持ってあげました。
ここでは、「Nの」の形で表わされています。
試験のとき、友達を助けてあげました。
その時、親切な人が私達を駅まで連れていってくれました。
これらの例では「Nを」になっています。
病室は少し暑かったので、窓を開けてあげました。そして、テレビをつけてあげ
ました。
この場合は省略されていますが、もし補うとすれば、「病人のために」でしょう。上の「教える」の例でも、「タンさんが私のために、私の子供に教える」という場合を考えると、
タンさんが私の子供に英語を教えてくれました。
となって、恩恵の受け手は「Nの」で示されている「私」にもなります。
以上のように、「恩恵の受け手」の示し方はなかなかやっかいですが、文脈を考えれば分かるはずです。
ある日本語教科書には、次のような文型が書かれていますが、この「N2に」は常にあるわけではありません。ですから、文型としてこのように書いてしまうのは正しくありません。
N1が N2に V-て あげる
N1が N2に V-て くれる (N2は「私」など)
「あげる」が述語である場合は「Nが Nに Nを あげる」でいいのですが、「V-てあげる」の場合は、「Nに」があるとは限りません。上で見たようにさまざまな形で「恩恵の受け手」が示されます。「V-てくれる」の場合も同様です。
[「V-てもらう」の「Nに」]
前に文型の形を並べたとき、「V-てもらう」だけは「人に」が必要でした。この「人に」は受け手ではなくて「恩恵の与え手」です。行われる動作の主体の「Nが」が、ちょうど受身文のように、「Nに」として表されるのです。
「V-てもらう」の「Nが」が「恩恵の受け手」になり、実際に何かをする人が「Nに」で表されるのです。この点で「V-てあげる/くれる」とは反対です。
「人から」で言える場合もあります。
あの人から教えていただきました。
AさんからBさんに伝えてもらいました。
父(の方)から相手方に送ってもらいました。
これらの例は、「V-て」の動詞が「私に教える」「Bさんに伝える」「相手方に送る」のように、相手の「Nに」を取ることが特徴です。これが、「人から」はだめで必ず「人に」でなければいけないとすると、
AさんにBさんに伝えてもらいました。
のようになってしまい、わかりにくくなるので、「人から」が使える必要があります。
[受身・使役との関係]
たとえば、ある人が列車の中で、窓際に座っている妻に「窓を閉める」ように言い、その妻がそうした場合、「妻に窓を閉めさせた」のか「妻に窓を閉めてもらった」のかは微妙です。その夫婦の力関係に関する知識が必要です。また、夫の言葉が、
窓を閉めてくれ。
窓を閉めてくれないか。
窓を閉めろよ。
あの、すまないけど、窓をちょっと・・・
などのどれだったのかということも関係します。
また、窓を開けたままにしておきたかったのに「妻が窓を閉めた」場合には、「妻に窓を閉められた」という「迷惑の受身」が使えます。
別の例で言うと、名人の落語家は「客を笑わせる」のが上手ですが、会社の社長が社内の宴会の隠し芸として一席やれば、「社員に笑わせる」という強制の使役か、「社員は(無理に)笑わせられる」ことになります。新米の下手な落語家があちこちトチッて、「通の客に笑われる」かもしれませんし、同情されて「笑ってもらう」こともあるかもしれません。
このように、第三者から見れば、ある動作の、その動き自体は同じに見えるのですが、その裏にある意味合いはずいぶん違ったものがあり、それを表し分けるのがこれらの表現です。
25.7.2 「恩恵」以外の意味
ただし、これらの形式が「恩恵」の意味を離れて使われる場合があります。
「V-てやる」は、相手に対する敵意のある行為に付ける場合があります。
殺してやる!
あいつ、いつかとっちめてやろう。
お、そうきたか。よーし、受けてやろうじゃないの。(碁・将棋)
「V-てあげる」ではそのような意味になりにくくなります。丁寧さが加わるからでしょう。
殺してあげようか。
「V-てくれる」は「実現の期待」という意味合いのことがよくあります。
雨でも降ってくれないかなあ。
この計画がうまくいってくれれば、問題解決だ。
次の例は、現に「ちゃんとやって」いないときには、非難の意味にもなります。
もうちょっとちゃんとやってくれないかなあ。
「V-てもらう」も、その人の行動の実現を期待する意味になります。
まあ、今回は彼に泣いてもらうさ。
ああ結構だ。やってもらおうじゃないか。(反語的)
この例で、相手が何かを「やる」のは、話し手にとって好ましいことではないのですが、それをあえて「やってもらう」(自分のために実現を期待)と表現しています。(「V-(よ)うじゃないか/の」については「32.勧誘・意志表現」を見て下さい)
「V-てもらう/いただく」に希望の「-たい」を付けた「V-てもらいたい/ていただきたい」の形は、聞き手に行動を要求する立場の話し手が使うと、かなり強い要請になります。
明日、この問題を話し合ってもらいたい。(上司から部下に)
本署までお出でいただきたい。(警察から)
25.7.3 V-させてあげる/くれる/もらう
使役表現がこの授受表現と結び付いて、次のような複合表現を作ります。
弟に私のマイコンを使わせてあげました。
母に頼んで大学へ行かせてもらいました。
私達にも食べさせてくださいました。
先生の論文を引用させていただきました。
はっきりと「使役」の意味があるものから、相手の気持を配慮して、ぐらいの意味のものまで様々です。
最近「V-させていただく」が濫用されていて、好ましくないという批判があります。ただ単に
ただいまから委員会をはじめます。
と言えばいいところで、次のように言う必要はないということです。
ただいまから委員会を始めさせていただきます。
また、本来の「使役」の意味が全然ない場合、例えば、
粗品を送らせていただきました。
などでは、立派な謙譲表現があるのだから、次のように言うべきでしょう。
粗品をお送り致しました。
これは「29.敬語」で扱います。
参考文献
寺村秀夫1982「受動態」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
寺村秀夫1982「使役態」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
寺村秀夫1982「可能態」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
寺村秀夫1982「動詞の自他-語彙的態の類型」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
寺村秀夫1982「まとめ」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
村木新次郎1991『日本語動詞の諸相』ひつじ書房
柴谷方良2000「ヴォイス」『文の骨格』岩波書店
久野すすむ(日章)1986「受身文の意味-黒田説の再批判-」『日本語学』86.2明治書院
佐藤・仁科1997「工学系学術論文にみる「と考えられる」の機能」『日本語教育』93
佐藤琢三「日本語のヴォイスの体系とプロトタイプ」不明・紀要
鈴木重幸1980「動詞の「たちば」をめぐって」『教育国語』60むぎ書房
鈴木重幸1987「『ことばの科学Ⅰ』村上・佐藤論文によせて」『教育国語』90むぎ書房
砂川有里子1987「チャレンジコーナー」『言語』87.7大修館
たかはしたろう「たちば(Voice)のとらえかたについて」
田中真理・舘岡洋子1992「構文と意味の面から見た「受身」と「~てもらう」の使い分け-「迷惑・被害の受身」の考察を通して」『ICU日本語教育センター紀要』2国際基督教大学
野田尚史「日本語の受動化と使役化の対称性」
又平恵美子2001「「イチゴが売っている」という表現」『筑波日本語研究』6筑波大学文芸・言語研究科
大曽美恵子1983「授動詞文とニ名詞句」 『日本語教育』50号
堀口純子1987「「~テクレル」「~テモラウ」の互換性とムード的意味」『日本語学』1987.5明治書院
守屋三千代「必須成分としての授受形式」不明・紀要
山田敏弘1996「日本語の参与者追跡システムについて(1)-授受表現を中心として-」『現代日本語研究』3大阪大学
山田敏弘1997「「テイル」と「ベネファクティブ」」『日本語教育』92
山田敏弘1998「日本語の参与者追跡システムについて(3)-連体修飾節のベネファクティブを中心に」『現代日本語研究』5大阪大学
山田敏弘1999「テモラウ受益文の働きかけ性をめぐって」『阪大日本語研究』11大阪大学
渡辺裕司1993「授受表現における授受の方向性Ⅱ」『東京外国語大学留学生日本語教育センター論集』19
青木ひろみ1997「自動詞における《可能》の表現形式と意味-コントロールの概念と主体の意志性-」『日本語教育』93
奥田靖雄1986「現実・可能・必然(上)」『ことばの科学1』むぎ書房
金子尚一1981「能力可能と認識可能をめぐって-非情物主語ということ-」『教育国語』65むぎ書房
小矢野哲夫「現代日本語可能表現の意味と用法(Ⅰ)」
渋谷勝己1995「デキルと可能動詞」宮島他編『類義上』くろしお出版
江頭由美1996「もの対象語のサセル動詞文について」『日本研究教育年報』1996東京外国語大学
早津恵美子1991「所有者主語の使役について」『日本語学科年報』13東京外国語大学
宮地裕1969「せる・させる-使役<現代語>」『助詞・助動詞詳説』
森田良行使役表現における「を」「に」」
吉川武時 「日本語とタイ語の使役表現をめぐる調査の報告』『日本語学校論集』東京外国語大学
小嶋栄子1993「使役うけみ文について-その意味と用法-」『日本語学科年報』15東京外国語大学
安達太郎1995「思エルと思ワレル」宮島他編『類義上』くろしお出版
植田瑞子1998「「自発」表現の一考察-自発文の二系列」『日本語教育』96
杉本和之1988「現代語における「自発」の位相」『日本語教育』66
寺村秀夫1982「自発態」『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
浅野裕子1996「「と思われる」にみる日英の語用論的原則」『日本語教育』88
張麟声1997「受動文の分類について」『現代日本語研究』4大阪大学
丁意祥1997「受け取り・取り外し動詞から形成される受身文について」『現代日本語研究』4大阪大学
權奇洙1991「受身文の動作主マーカーについての一考察-主に「に・によって・から」を中心に-」『東北大学文学部日本語学科論集』第一号
天野みどり2001「無生物主語のニ受動文-意味的関係の想定が必要な文-」『国語学』52巻2号
小川誉子美2000「作用者格無表示受身文に関する考察」『日本語教育』103
工藤真由美1990「現代日本語の受動文」『ことばの科学4』 むぎ書房
小島栄子1996「「もちぬしのうけみ」とよばれるうけみ文について」『日本研究教育年報』1996東京外国語大学
柴谷方良1997「「迷惑受身」の意味論『日本語文法 体系と方法』ひつじ書房
杉本武2000「日本語の所有者受動文と大主語構文について」『文藝言語研究言語篇』37筑波大学
砂川有里子「<に受身文>と<によって受身文>」
谷守正寛2000「間接受身文に対応する文についての一考察」『日本語教育』107
張麟声1995「ニとカラとニヨッテ」宮島他編『類義上』くろしお出版
張麟声1998「受動文における非典型的動作主につく動作主マーカーについて」『世界の日本語教育』8
張麟声1996「非情ガ(ハ)+有情ニ+サレル」型受身文について」『現代日本語研究』3大阪大学
張麟声1998「現代日本語受動文の構文的タイプ」『現代日本語研究』5大阪大学
丁意祥1997「間接受身に関する一考察」『日本語教育』93
丁意祥1995「いわゆる<持ち主の受身>について-非分離性関係の受身について」『現代日本語研究』2大阪大学
早津恵美子1990「有対他動詞の受身表現について-無対他動詞の受身表現との比較を中心に」『日本語学』5月号明治書院
細川由起子「日本語の受身文における動作主のマーカーについて」『国語学』144号
光信仁美2001「直接対象受動文に関する一考察」『日本研究教育年報』5東京外国語大学
村上三寿1997「うけみ構造の文の意味的なタイプ」『ことばの科学8』むぎ書房
山内博之1997「日本語の受身文における「持ち主の受身」の位置づけについて」『日本語教育』92
山橋幸子2000「「てくれる」の意味機能-「てあげる」との対比において-」『日本語教育』103
王恬1990「「~てもらう」文の意味と統語的特徴-「~(さ)せる」文との比較を兼ねて-」『日本語学科年報』12東京外国語大学
許明子2000「テモラウ文と受身文の関係について」『日本語教育』105
天野みどり1991「経験的間接関与表現-構文間の意味的密接性の違い-」『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版
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