25. ボイス (1) 受身・使役

    25.1 概観      25.5 自発

    25.2 受身     25.6 自他動詞との関係 

    25.3 使役     25.7 V-てあげる、など

    25.4 可能


25.1 概観          

 ボイスというのは、文法用語としては耳慣れない言葉ですが、

    「ある種の意味を表す複合述語が、その中心となる動詞の要求する格助詞を

     変えさせ、新たな補語の型を作る現象」

です。この説明だけでわかる人はもともと知っている人だけだと思いますが。日本語としては「態」ということばがよく使われます。「受動態」(この本では「受身」としました)などという時の「態」です。英語の「Voice」の訳語からです。なお、「ヴォイス」と書く人が多いのですが、どうせ発音の区別は(少なくとも私には)できないのですから、「ボイス」としました。「ビバルディVivaldi」の「バイオリン協奏曲」で通用しているわけですから。

 日本語の文の中で、述語と補語との関係を示すものは格助詞です。その中で特に「ガ、ヲ、ニ」の三つが重要です。それらの格助詞が、述語につけられるいくつかの接辞の影響を受けて、他のものに変化することがあります。つまりその名詞と述語(接辞を含めた複合述語としての全体)との関係が変化するわけです。

 実際の例は次のようなものです。

     親が子供を叱る → 子供が親に叱られる 

     子供が勉強する → 親が子供に勉強させる

 初めの例を見ると、英語の「受動態」を思い出す人が多いのではないでしょうか。英語の受動態は、

     N1+V+N2 → N2+be+V-ed+by+N1

という操作として習いました。これは、どういう操作かというと、

    元の文の動詞の目的語を主語の位置に据えて、元の主語を動詞の後ろに回して

   「by」をつける。動詞は「過去分詞形」にし、「be動詞」をその前に置いて、、、

となかなか面倒な操作です。意味的には、「動作を受ける対象の立場にたって、その動作を受ける」ことを表します。初めて習った時は、何でこんなことをするんだ、と思った人も多いでしょう。もちろんこうするにはそれなりの理由があるわけですが。

 日本語にも、似たような文型があるわけです。そしてこれは、世界の多くの言語に見られる現象のようです。もちろん、日本語の受身は、英語やそのほかの外国語のそれとはさまざまな違いを持っています。ですから、日本語学習者の間違いやすいところです。よく話題になるのは、

    雨に降られて困った。

    夜中に赤ん坊に泣かれて、寝不足だ。

のような、対応する「NがNをV」の形の文がない、「自動詞の受け身」です。

 上の二番目の例は「使役文」です。これも、英語や他の外国語にも似たような文型があります。この文型の意味は、ほかのことばでは説明しいにくいものです。「ある人が、他の人に、何かを、させる」のだ、と言えば、日本人にはすぐわかるのですが、それでは説明になりません。「させる」というのがまさに「使役」の形ですから、それを説明しなければいけません。「ある動作が他者の影響によって行われることを表す」ということにしておきましょう。これでは非常に不十分ですが。 

 受身・使役の二つがボイスの代表ですが、ほかに可能と自発と言われるものがあります。可能表現は、

     中国語の新聞を読む → 中国語の新聞が読める 

のように動詞の形が変わることと、助詞の「を」が「が」に変わる点でボイスに入れられるわけですが、助詞はかならずしも変えなければならないわけではない、ということと、逆に、変えると不自然になる例があって、「ボイスらしさ」はあまり強くありません。

 また、可能表現には「V-ことができる」という形の複合述語もあります。これはボイスではありませんが、いっしょに扱うことにします。

 自発表現というのは、

     そうであろうと思われます。

の「思われる」のようなものを言います。人が意図的にするのではなく、自然にそうなる、と言う意味のものです。思考・感情を表す動詞に見られます。これも格助詞の変化はありませんが、形態的・意味的につながるところがあるのでここで扱います。他の文法書では、格助詞の変化のある例を含む場合があります。

 前に「やりもらい動詞」というものをとりあげたことがありますが、これらの動詞を「V-て」の後に補助動詞としてつけた文型があります。その中で「V-てもらう」がボイスの表現と似ているので、それらについても考えてみます。

     ノートに漢字を書く

     ノートに漢字を書かせる

     ノートに漢字を書かれる

     ノートに漢字を書いてもらう

 以上がボイスに関わる文型ですが、ボイスは自動詞と他動詞の対立に関係があります。そこで、自他動詞の対とボイスの関係を最後に少し検討します。

     横綱が倒れる(自動詞)

     小結が横綱を倒す(他動詞)

     横綱が小結に倒される(受身)

 

25.2 受身

 では、受身についてくわしく考えみましょう。   

 多くの人にとって、まず頭に浮かぶのは英語の「受動態」でしょう。英文法の説明をそのまま日本語に移し替えてみれば、次の1が元になる受動態、2がその受動態といわれるものです。

   1 Aが Bを V-する (猫がねずみを捕まえた)

   2 Bが Aに V-される(ねずみが猫に捕まえられた)

 この対応は日本語でも確かに成り立ちます。(用語は「受身」でも「受動」でも同じですが、ここでは受身にしておきます。柔道では国際的に使われているようですし)

 受身で考えるべきことは、動詞の受身形の作り方、上の例のような受身の作り方、それ以外の受身の型、受身はどんな時に使うのか、などでしょう。それらを一つずつ考えて行きましょう。


25.2.1 受身形

 まず、受身形の作り方から。動詞の活用のだいたいのことは前に述べてありますから、忘れた人はまたそこを復習しておいて下さい。受身形についてはそこで述べなかったので、ここでかんたんに説明しておきます。


  五段動詞

    語幹に-areru をつける、またはナイ形(のナイをとった形)にレルをつける。

    どちらの言い方でもいいのですが、後の方が学習者には覚えやすいでしょう。

      呼ぶ→呼ばれる   取る→取られる   書く→書かれる  

      踏む→踏まれる   打つ→打たれる   防ぐ→防がれる  

      死ぬ→死なれる   笑う→笑われる   話す→話される  

  一段動詞

    語幹にラレルをつける

      見る→見られる   変える→変えられる 

  不規則動詞 

      来る→こられる   する→される 


 なお、「立たされる」のような、いわゆる「使役受身」の形は「25.2.3 使役受身」で扱います。


25.2.2 受身の種類

 さて、受身の具体的な話に入ります。

 日本語の受身は、その「Nが」が人(動物)である場合が基本です。書きことば、特に新聞記事や科学的な文章ではそうでない場合のほうが多いのですが、ここでは、今までそうしてきたように、日常的な話しことばをまず考えて行きます。書きことばに多い受身文については、その後で考えましょう。 


① 直接の受身1:人が

 まず、すでに例を出したような、英語の受動文に相当するような型と、それに類する型から。

 ①-1 AがBをVする → BがAにV-される

       猫が魚を食べる → 魚が猫に食べられる 

  動詞の対象が「Nを」で示されるような動詞です。いちばんふつうの受身。

      ねずみが猫に捕まえられた/食べられた。

      私は先生に/から しかられた/ほめられた。

    追う、追いかける、食べる、呼ぶ、怒る、たたく、殴る、殺す、抱く、

    憎む、愛する、信頼する、批判する、軽蔑する、・・・

動作の主体はふつう「Nに」で表されますが、精神的な意味の動詞では「Aから」の形も使われます。直接対象に働きかけて変化を加えるような「Bを」でなく、「B」に対して精神的・言語的な働きかけをするだけだからでしょうか。

      彼女はみんなから 愛され/憎まれ/信頼され/批判され ている。

 さて、以上の例はみな「人(動物)が人(動物)にV-される」という形のものでした。「人または動物」というのは、意識・感情を持つもの、という意味です。例えば、最初の「魚が猫に食べられる」という例の「魚」は、池で泳いでいる金魚か鯉を思い浮かべるのがふつうでしょう。魚屋の店先に並んでいる魚なら、「(魚屋が)魚を猫に食べられた」のような、(後で述べる「Nの」の受身になって)「Nが」は「人が」になるでしょう。つまり、この「直接の受身」では、「Nが」のNは生きているものであること、その動作を受けることを「感じる」ことができるものであることが基本にあるのです。

 受身というのは、ある動作・現象を、その主体の視点から表現するのでは なく、「その動作・現象の影響を受ける側の視点から表現する」、というこ とが基本にある文型です。その「受ける側」として話し手が視点を置きやす いのは意識を持つもの、文法書の言葉で言えば「有情」のもの、であるとい うことになるようです。

  ただし、後で見るように「モノが」の受身ももちろんたくさんありますから、受身の基本的な発想として、「人が」の受身がある、ということです。

 「人(動物)がモノに」の受身の例を少し。話しことばでは少ないようです。

      私の目の前で、犬が車にはねられた。

      私たちは、その事件に大きく影響された。  

      彼女は毎日仕事に追われている。

「仕事に追われる」は「?仕事が彼女を追う」とは言わないので、例外的なものです。他の受身文からの類推による慣用的な言い方と見なします。

 もう一つ慣用的な言い方で、「~の手で」という形があります。

      私は祖母の手で育てられた。

 意味的には「祖母に育てられた」のでしょうが、このように言うことがあります。「×祖母の手が私を育てた」とは言えないので、対応する元の文がないことになります。


 ①-2 AがBにVする → BがAにV-される

      犬が私にかみつく → 私が犬にかみつかれる

 上の「Bを」が「Bに」の例。ふつう、自動詞とされますが、直接的な対象を取るものはそのまま直接の受身になります。

      私は酔っ払いに寄りかかられた。(←酔っ払いが私に寄りかかる)

      私は犬に飛びつかれた。(←いぬが私に飛びつく)

    ほれる、ほえる、飛びかかる、・・・


 ①-3 AがBにCをVする → BがAにCをV-される

      友達が私に仕事を頼む → 私が友達に仕事を頼まれる

 補語が「に・を」の型で、対象の「Nに」が受身文の「Nが」になるもの。

      友達に仕事を押しつけられた。(友達から)       

      ある人にこんなことを言われた。(ある人から)

      私たちは彼女にいろいろなことを教えられた。(彼女から)

 この文型では「Aに」の代わりに「Aから」を使うことができます。もともと「Bに」が「到達点」のような意味合いを持っている(友達→私)ので、その逆の「出発点」の「Aから」に近くなるわけです。     


①-4 AがBにCをVする → CがAからBにV-される

 同じく「NにNを」の「Nを」が受身文の「Nが」になるもの。元の「Nに」が残っているので、「Aが」はわかりにくくなるのを避けて「Aに」にはならず、「Aから」になります。

      新任の彼は支店長から皆に紹介された。

 こういう例文を作ると、ずいぶんぎこちない感じがしますが、話しことばでは「Nから」か「Nに」が省略され、自然になります。

      きのう、みんなに紹介されたけど、誰が誰だかまだわからないよ。

      ただいま支店長からご紹介いただきました田中です。


 ①-5 AがBをCとVする → BがAにCとV-される

 「BをCと」の補語をとる動詞です。数は少ないです。

     彼女はみんなに幸運の女神と呼ばれた。(彼女を幸運の女神と呼ぶ)

     彼の行為は監督者にカンニングとみなされた。(監督者が彼の行為をカンニング

     と見なす)

 「Bを」がない例。さらに少ないです。

     彼女は彼と絶交した。→ 彼は彼女に絶交された。


 ② 直接受身2:モノが

 さて、以上では受身文の「Nが」が人の場合のみを取り上げました。人や動物以外の名詞を受身の「主体」(受け手?)とすると、書きことばという感じがします。

     オリンピックがソウルで開かれた。

     メキシコではスペイン語が話されている。

     多くの資料が集められた。

     メダルが受賞者に渡された。

     この小説は広く読まれている。

     計画の概要が担当者から発表された。

     この城は秀吉によって築かれた。

     空は厚い雲に覆われている。

     橋が洪水で流された。

 これらを見て気づくことは、「人がモノをV-する」に対応する受身文「モノがV-される」で、「人に」は省略される、あるいは、言いにくい、ということです。

 「オリンピック」の例などは、「誰が開いたか」ということそもそも示しにくい事柄ですから、受身の形にして、「誰に」は表さなくてもいいようにします。これは「なぜ受身で言うか」という問題の答えの一つになります。

 「誰がしたか」がはっきりしていても「モノが人に」は言えません。

     彼が多くの資料を集めた。

    ×多くの資料が彼に集められた。(「彼のところに」の意ではなく)

     担当者が計画を発表した。

    ×計画が担当者に発表された。(「担当者に対して」の意ではなく)

 ただし、上の例にもあるように「人に」でなく、「人によって」「人から」などの形にすれば可能です。「によって」のほうが硬い表現です。

     多くの資料が彼一人(の努力)によって集められた。(×から)

     計画の詳細が担当者によって/から 説明された。

     メダルが大会委員長によって/から 受賞者に贈られた。

     いくつかの問題点が彼女によって/から 指摘された。

     その話は彼から彼女に伝えられた。(←彼が彼女にその話を伝えた)

     新郎の経歴が仲人から人々に紹介された。

 「Nから」が使えるのは、元の動詞が何らかの意味で対象に対して方向性を持っていると考えられる場合です。言語的な「発表する・伝える・指摘する・紹介する」や、所有の移動を表す「渡す・贈る」など。

 「小説」の例では、「多くの人々に」とすることができます。特定の個人ではなく、一般的な人々・集団であるような場合は「人に」が可能になります。

個別の出来事ではなく、状態的になります。

     この歌は子どもたちに親しまれている。

     ワープロは小説家にも使われている。

 「人のあいだで」という言い方もあります。

     この伝説は国民のあいだで広く信じられている。

 「モノがモノに」という形は、数は多くないとしても可能です。また、「モノに」が原因の意味合いを持つので、「モノでV-られる」という形が多くなります。

     空は厚い雲に/で 覆われている。

     橋が洪水で/に 流されてしまった。

     その村は回りを山に/で 囲まれていた。

     木の葉に/で さえぎられて、日が当たらない。

     小屋は落ちてきた岩に/で つぶされ、原形をとどめていなかった。


 ③ 「Nの」の受身

 以上は、受身の「Nが」になるものが、元の文で動詞の補語でしたが、そうでない受身文があります。一つは、元の文で動作の対象となる補語を「Nの」の形で修飾している要素が、受身文の「Nが」になる型のもの。こう言うと何か複雑ですが、実際にはよくある文です。「持ち主の受身」と呼ばれることがあります。「直接の受身」の対象と受身文の「Nが」がちょっとずれた感じです。

   AがBのCをVする → BがAにCをV-される

   誰かが私の足を踏んだ → 私は誰かに足を踏まれた

     彼はすりに財布をすられた。

     先生にレポートをほめられた。

     小学校の先生に息子をほめられた。

     肩をたたかれて振り向くと、彼がいた。

     朝顔に釣瓶とられてもらい水

 この中で「C」が体の部分の場合と、持ち物・作品(子どもは作品?)などの場合があります。

 体の部分の場合は、「BのCを」をそのまま「BのCが」には持って来にくいという傾向があります。

    ? 彼の足が(は)誰かに踏まれた。

    ? 私の肩が(は)たたかれた。(「私は肩をたたかれた」との違い)

 それに対して、持ち物などの場合はいくらかいいようです。

     彼のかさは誰かに持って行かれ(てしまっ)た。

     私の息子が先生にほめられた。

 この「AがBのCを」を「BがAにCを」とする型の受身はよく使われるものですが、日本語学習者にとっては使いにくいもののようです。上に述べたような「BのCが」にしてしまう誤りがよく見られます。

 この受身と次の「迷惑の受身」との違いは微妙なところがありますが、一応はこちらのほうが動作の影響が直接的であると言えます。


④ 間接受身

 もう一つは、元の文には受身文の「Nが」が直接出ていないものです。むろん、元の文の内容と、その「Nが」とが何の関係もなければ受身文にはならないので、何らかの被害・影響を受ける立場にあります。そして、この受身文の特徴は、必ず「迷惑」を受けることを表すことです。迷惑といっても、「殴られる・殺される」のような直接的なものでなく、「はた迷惑」と言ったほうがいいものです。

   A 子どもたちは、学校の帰りに雨に降られた。(雨が降る)

     私はゆうべ赤ん坊に泣かれて眠れなかった。(赤ん坊が泣く)

     そんなところに立っていられては迷惑です。(人が立っている)

     彼女は若くして夫に死なれ、幼い子どもたちを育てあげるのに苦労した。(夫が

     死ぬ)

     おい、動け。こんなとこでエンコされたら困るよ。(愛車が)

B 弟にケーキを全部食べられてしまった。(弟がケーキを食べた)

     電車で隣の人に窓を開けられ、風で髪がばさばさになってしまった。

     (隣の人が窓を開ける)

     家の前にマンションを建てられて、日があたらなくなった。

     野党にその点を問題にされると、ちょっと面倒だな。

     同僚にいい成績をあげられると、比較されて迷惑だ。

     (同僚がいい成績をあげる:迷惑の受身)

     (上司が私を同僚と比較する:直接の受身)

 日本語の受身の特徴としてよく言われる「自動詞の受身」もこの中に入ります。上のAの例がそうです。

 しかし、この文型は他動詞でも成り立ち、自動詞だけのことではありません。Bは他動詞ですが、同じ迷惑の受身です。むしろ、自他を通じて持っている共通の特徴(受身文の「Nが」が元の文にないこと)が重要なのです。また、この受け身の「Nが」はほとんど「人」であることも大きな特徴です。「はた迷惑」というような感情を持つのは人間(と高等動物)だけだからです。ただし、いわゆる「擬人化」された場合と、人間の集団である「組織」は人扱いです。

 これらの受身の多くは、「Nの」の受身と同じように、受身文の「Nが」の名詞を「Nの」の形で「元の文」に当てはめることができます。

     私の学校の帰り    私の赤ん坊

     私の隣の人      私の家の前

けれども、「Nの」の受身とは、それらの「のN」の名詞が動詞の対象となっていないという点が大きく違います。「直接」に動作を受けていないのです。

 微妙な例が「ケーキを食べられた」という例です。「私のケーキ」で、その「ケーキ」は「食べる」の直接の対象になります。しかし、「ケーキを食べる」という行為は、「足を踏む・財布をとる・レポートをほめる」などのような、他者に対する行為とは言えませんから、間接受身に入れておきます。

 また、元の文の「Nが」は「Nに」に必ずなり、それ以外の形にならないことも大きな特徴です。

     悪徳地主に/×によって 家の前に高い塀を建てられた。(間接)

    cf.日が差さないように、悪徳地主によって/×に 高い塀が建てられた。(直接)


25.2.3 受身の使用条件

 さて、受身文はどんな時に使われるのかが次の問題です。動詞の「対象」となっている名詞を「Nが」の位置に持ってくる、というのが受身文を使うねらいなのですが、では、なぜ「Nが」の位置に持ってくるのか、という問いが生まれます。

 まず、文脈の中で話題となっているものを「Nが」の位置に持ってくるために受身文を使う場合があります。

   1 彼は手にけがをしている。犬にかまれたのだ。

   2 彼は手にけがをしている。犬がかんだのだ。

 どちらの文も可能ですが、1のように受身にすると、主題(彼)が一致して、文のつながりが密接になります。(→「60.文のつながり」)

 同様に、複文の中で「Nが」の交替をさけることにも有効です。

   3 (彼が)大きな失敗をしたので、上司は彼を叱った。

     彼は大きな失敗をしたので、(彼は)上司に叱られた。

   4 ねずみは走って逃げたが、猫はついにねずみを捕まえた。

     ねずみは走って逃げたが、ついに猫に捕まえられた。

 また、前にも述べたように、「誰が」ということを言いにくい場合に受身が使われます。

   5 ソウルでオリンピックが開かれた。

     アメリカでは、たくさんの人が銃で殺されている。


[受身の「非用」]

 受身でよく問題になるのは、受身を間違って使うこと(「誤用」)ももちろんですが、学習者がそもそも受身を使わない、使えないということがあります。使ったほうがいい場面で使うことをさけてしまうことを「非用」と言います。上にあげた例で言うと、

     彼は大きな失敗をした。だから、上司が彼をしかった。

のような言い方をしてしまうことです。間違いとは言えないのですが、自然な言い方ではありません。受身の言い方を知らないか、あるいは受身を使うことに自信がないために、ついさけてしまうということもあるでしょう。

受身という文型の特徴の一つとして、使わなくても何とかなることが多い、ということがあります。他の文型で言えるのです。

 間接受身の場合は、いっそう「非用」が多いことが予想できます。前にあげた例は、

     赤ん坊が泣いたので眠れなかった。

     野党がその点を問題にすると、ちょっと面倒だな。

のように、受身にしなくても何ら問題がないからです。しかし、ここで迷惑の受身を使うと、いかにもこなれた日本語らしくなるわけです。


[対象の主題化]

 受身を使わずにすませるための他の文型の一つに、対象の主題化があります。

受身というのは、ある動作・現象を、その主体の視点から表現するのではなく、「その動作・現象の影響を受ける側の視点から表現する」、ということが基本にある文型だ、ということを前に述べましたが、主題化も似たような働きがあります。

   1a 二郎が太郎を殴った。

    b 太郎は二郎に殴られた。

    c 太郎は二郎が殴った。

   2a A氏がこの論文を書いた。

    b この論文はA氏によって書かれた。

    c この論文はA氏が書いた。

   3a 弟がケーキを食べた。

    b ケーキは弟に食べられた。

    c ケーキは弟が食べた。

 1の直接受身の場合は、視点を変えるという意味では受身のほうが自然です。cのような対象の主題化は、対比的な意味を帯びやすく、かえって動作者である「二郎」を際だたせることになります。

 2bのような「モノが」の受身は、書きことばであるという文体的特徴が加わるほかは、cの主題化と同じような効果を持ちます。

 3bの迷惑の受身は、話し手の受けた心理的な影響をはっきり示します。それに対して、cの主題化は、単に事実を述べているだけです。


[V-てある]     

 「V-てある」も受身との使い分けがあります。

     机の上に花瓶が置いてある。

     机の上に花瓶が置かれている。

     壁に「禁煙」と書いてある。

     壁に「禁煙」と書かれている。

 どちらも動作者を暗示している点では同じですが、受身のほうがより強く示します。

  また、「V-られている」は進行中の意味にとれる場合が当然あります。

     机の上に食器が並べてある。

     (今)机の上に食器が並べられている。

 「V-てある」は、すでに並べ終わった状態しか示しませんが、「V-られている」のほうは、その最中であることも示せます。


25.2.4 受身の分類

 以上で受身の用法の話は終わりますが、最後に受身の種類の分類のことを少し述べておきましょう。

 前に述べたように受身文を大きく①「直接受身」、②「「Nの」の受身」、③「間接受身」に分けることは、比較的広く受けられているものですが、その名称は色々です。(「受身」と「受動」はおなじものとしても)

 ①は「単純受身」とも呼ばれます。この中で「Bに」が 「Bが」になるものを「間接対象の受身」と呼ぶ人があり、後の「間接受身」とまぎらわしくなります。

 ③は「迷惑の受身」「第三者の受身」などと呼ばれることも多いのですが、そこでも述べたように、これを自動詞だけのことと誤解して、「自動詞の受身」と呼ぶこともあります。

 さて、問題は②の型の位置付けです。これ自体は、「所有者の受身」「持ち主の受身」などと呼ばれます。それはいいのですが、これを③の型とまとめて、広い意味で「間接受身」とする考え方と、①の型とまとめて「直接受身」とする考え方が対立しています。

その点だけを取り出して、図にすると次のようになります。

       Ⅰ                  Ⅱ    

     直接受身 ──┬─① 単純受身 ──────  直接受身       

            └─② 持ち主の受身 ─┬── 間接受身        

     間接受身 ────③ 迷惑の受身 ──┘              

 Ⅰ案の考え方は、受ける影響の直接性(足を踏まれる痛みは「間接的」なものではないでしょう)を重視したものです。それに対してⅡ案は、「Nが」になる補語が元の文の動詞の「直接の補語」でないこと(補語にかかる「Nの」だったり、そもそも文中になかったり)を重視しています。

 どちらがいいかは、まだ議論が続くでしょうが、Ⅰ案の利点は、Ⅰの「間接受身」は意味的に皆「好ましくないこと」になることです。持ち主の受身では、「レポートをほめられ」たりして、いい場合もありますから。間接受身は、好ましくない、間接的な影響を受けることを表す文型だと言うことができます。

 また、「ほめられる」のような例があるにしても、受身文は一般にあまり好ましくないことを表すことが多いのは事実です。では、好ましいことはどうやって表すのでしょうか。

     電車で隣の人に窓を開けられた。

     電車で隣の人に窓を開けてもらった。

     電車で隣の人が窓を開けてくれた。

 「もらう」の例は、何か「頼んでしてもらった」ような意味合いが感じられますが、意味的には受身文に対応するものといえるでしょう。

     家の前に看板を建てられた。

     家の前に看板を建ててもらった。

の例でも、好ましさのプラスマイナスがちょうど表されています。

 この「V-てもらう」とその他の「やりもらい動詞」による複合述語はまた後でとりあげることにします。(→「25.7 V-てあげる、など」)


25.3 使役文                     

 「使役」というのは一般には聞き慣れないことばです。辞書によれば、「人を使って仕事をさせること」ですが、実際には文法以外ではあまり使われないことばでしょう。

 それはともかく、初級文法ではかならず出てくる文型ですので、一通り見ておきましょう。まず、使役文とはどんな文を言うのか、基本的な例を。

     子供がご飯を食べます。(「元の」文)

     お母さんが子供にご飯を食べさせます。(使役文)

 上の例のように、ある「Nが(子供が)」の動作を表す文を基本に考えて、そのことが他の「N(お母さん)」の何らかの影響によって起こったととらえることを表す文、を使役文と言います。かえってわかりにくい言い方ですが。 使役文で大切なことは、上の例でいえば、実際に動作を行うN「子供」が、使役文では「Nに(子供に)」に変わっていることです。使役文を聞いたとき、誰が実際に動作を行なったのかがすぐにわからなければなりません。

 上の使役文が表わす意味は、子供の動作「ご飯を食べる」が、お母さんの関与によって実現する、ということですが、子供の気持ちからすると、二つの場合が考えられます。

 まず、子供自身がおなかがすいてご飯を食べたくなり、「ねえ、ごはん!」と言って、それを聞いたお母さんが「食べさせた」場合。「ご飯」より「お菓子」にしたほうがわかりやすいでしょうか。このような場合を「許容」の使役、と呼ぶことにします。

 もう一つは、子供自身は食べたくないのだけれど、お母さんが「食べなさい」と言って多少むりやりに「食べさせる」場合。このほうが「食べさせる」の基本的な語感に合うようです。これを「強制」の使役、としておきます。

 上の例文を読んだとき、許容と強制のどちらの意味に感じたでしょうか。その中間というのが自然なところでしょうか。そのどちらかであることをはっきりさせたい場合は、「むりに」などの言葉を加えたりすればいいわけです。

 使役文は、話しことばではそれほど多く出てきません。どちらかというと、客観的な描写の表現だからです。「私」を中心に物事を述べて行くと、使役文よりも、後で説明する「使役受身文」の方が、形は複雑ですが、むしろ多く使われるようです。

     先生は私たちに作文を書かせた。(使役文)

     私たちは先生に作文を書かせられた。(使役受身文)

上の使役文は、「私たち」を外から描写しているので、小説のような感じがします。

 なお、受身文と比べて使役文の特徴は「元の文」より補語が一つ増えていることです。受身文で言うと、「迷惑の受身」とこの点では共通します。

 では、動詞の形の作り方から考えて行きましょう。


25.3.1 使役形の作り方

  五段動詞 語幹に -aseru をつける、またはナイ形(のナイをとった形)にセルをつける。

         話す→話させる  書く→書かせる   泳ぐ→泳がせる 

         読む→読ませる  遊ぶ→遊ばせる   死ぬ→死なせる 

         立つ→立たせる  走る→走らせる   笑う→笑わせる 

  一段動詞 語幹にサセルをつける。 

         着る→着させる  開ける→開けさせる 

  不規則動詞  来る→来させる  する→させる 


  使役形の作り方自体は非常に規則的なものですが、使役形と混同しやすい形の他動詞がいくつかあります。別の動詞の使役形と並べてみます。

     見せる   見る → 見させる   似せる   似る → 似させる

     乗せる   乗る → 乗らせる   浴びせる  浴びる → 浴びさせる

     かぶせる  かぶる → かぶらせる  

     寝かせる  寝る → 寝させる  

 これらの他動詞と使役形との間には微妙な使い分けがありますが、そのことは「25.6 ボイスと自他動詞との関係」で述べます。


25.3.2 使役文の種類

 ① NがNをV-する → NがNにNをV-させる

 初めの例「子供にご飯を食べさせる」では、元の「Nが」は「Nに」に変 わっていました。これは元の文が他動詞文だったことによります。言い換えると、元に「Nを」がある場合は、「Nが→Nに」と変えなければなりません。

     子供が牛乳を飲む → 母親が子供に牛乳を飲ませる

     生徒が作文を書く → 先生が生徒に作文を書かせる


 ② NがV-する → Nが Nに/を V-させる

 自動詞文の場合、つまり「Nを」がない場合はどうなるのでしょうか。

     子供が学校へ行く → 親が子供を学校へ行かせる

     子供が一人で行く → 親が子供に/を 一人で行かせる

     親が子供に/を 一人で学校に行かせる

 自動詞の場合は「Nを」になることが多いようですが、「Nに」でも言えます。「到着点」の「Nに」があるかどうかも影響します。

 この「Nを」と「Nに」では意味が違うという研究者がいます。「Nを」はそのNの意志を無視した「強制」で、「Nに」のほうはその意志が尊重されている、というのですが、どうでしょうか。私にはそれほどの違いは感じられません。また、そのように「強制度」の違いを言い分ける必要があるとするなら、他動詞文の場合はそれが無視されているわけで、体系的になっていないことになります。

 さて、すべての場合に「Nに」で言えるなら、この場合もそうしてしまえば、簡単でいいのですが、後で見るように「Nを」でなければいけない場合がありますから、そうも行きません。

 この、どちらでもいい場合はどうしたらいいでしょうか。教育上は「Nを」教えるほうが他動詞と対比させる意味でいいでしょう。実際の頻度も考慮して。

 「通過/出発点のヲ」などがある場合はどうでしょうか。

     子供に/?を 山道を/長い距離を 歩かせる

 やはり「に」の方がいいようです。


 ③ 自動詞で、意志的な動作でない場合

     友達が笑う → 彼が友達を笑わせる

     親が心配する → 子供が親を心配させる

 この場合は、かならず「Nを」になります。ここでは、「N」の意志がないという説明がいきてきます。    


 ④ 再帰的な動作(動作の結果が自分に帰ってくるような動作)

 「再帰的」というのは、自分の部分について言う場合で、自動詞と他動詞の中間のような表現になります。この場合も必ず、「Nを」になります。

     木が花を咲かせる       

     子どもたちは胸をどきどきさせていた。 


25.3.3 「使役受身」について

 ① 形の作り方

 使役文はさらに受身になります。日本語学習者にとっては、頭がごちゃごちゃしてくるような話です。

     母親が子供を買い物に行かせる     行く → 行かせる   

      → 子供は母親に買い物に行かせられる  行かせる → 行かせられる

 「行かせる」自体は一段動詞ですから、「見せる→見せられる」と同じような受身の形になります。例をもう少しあげておきます。

     私は恋人においしくない料理を食べさせられた。

     学生は先生に作文を書かせられた。

     子どもにおもちゃを買わせられた。

     部屋を掃除させられた。    

 この場合、使役文の二つの意味のうち、「強制」の意味にしかなりません。

 「?読まさせられる」という形を聞くことがありますが、これは誤りです。


② その短縮形

 先ほどの「行かせられた・書かせられた・買わせられた」の形は、話しことばでは、次の形になることが多いです。

     行かされた  書かされた  買わされた

つまり「-せられた」が「-された」になるのです。

 これを「使役受身」の「短縮形」と言います。この短縮形はすべての使役受身にあるわけではありません。元の動詞が一段動詞である場合、

     食べる → 食べさせる → 食べさせられる → ×食べさされる

     いる → いさせる → いさせられる → ×いさされる

となるはずですが、最後の形は、あるいは聞くことがあるかもしれませんが、正しい形と認められていません。一段動詞の使役形には短縮形はないのです。不規則動詞にもありません。

     勉強させられる → ×勉強さされる  来させられる → ×来さされる

 また、五段動詞でも、「-す」の動詞の場合、

     話す → 話させる → 話させられる → ×話さされる

となって、短縮形は使えません。

 このようにいろいろとやっかいな形なので、規則的な形作りをしっかり覚えるよりも、よく使われるものをそのまま覚え込んだほうが、学習者にとってはいいのかもしれません。



niwa saburoo の日本語文法概説

日本語教育のための文法を記述したものです。 以前は、Yahoo geocities で公開していたのですが、こちらに引っ越してきました。 1990年代に書いたものなので、内容は古くなっていますが、お役に立てれば幸いです。

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